音色にのせて−7


突然、上鳴に言われたことに奏弥は耳を疑った。指を鍵盤から離して上鳴を見上げると、上鳴は特に衒いなく喋っていた。


「特にさ、奏弥の愛情表現ってすげぇと思う。今のもそうだし、それこそあの五重奏とか」

「え、ちょ、上鳴君…?」

「驚いた?」


ニヤ、とする上鳴だが、冗談ではないようだ。驚くに決まっている。奏弥は動揺しつつ、真意を問う。


「好き、って…」

「もち、恋愛な。俺男いけるわけじゃねぇんだけど、あのとき奏弥の演奏聴いて、惚れたんだわ」


上鳴が聴いて奏弥に惚れたというブラームスのクラリネット五重奏曲は、確かに愛情という意味で非常に評価が高い。
特に、第二楽章は「真の愛の歌」と評されるほどに、その愛に満ちたドラマチックな曲想で展開される。

ブラームスは基本的に自信がないので作曲に時間がかかるのだが、これは本人も乗っていたらしく、比較的すぐに完成した。4つの弦楽器とクラリネットの主役で構成される曲で、管楽器の中で最も音域の広く自由な演奏ができるクラリネットの幅を存分に生かしたものだ。

第二楽章は三部形式のリート式の曲で、第一部はドルチェで少し切なくも愛に溢れる展開がなされる。
中間部に入るとアリアのように優雅なフレーズが来たと思えば、それによって装飾音とアラベスクが繋がれている。ゆったりと伸びる長音と、細かく一瞬で音が変わる装飾音・アラベスク、ラプソディックな音の大胆な移動が交互に繰り返される緩急は情熱的で緊張感がある。
忙しい中間部を終えると再現部という第一部の繰り返しになる。しかし再現部は第一部を何かしら変化させるものであり、ここではとりわけ主役のクラリネットと助演の第一ヴァイオリンとの「対話」と称される掛け合いのような展開が続く。
そして最後の締めのコーダ部分は、まさにこの時代の巨匠に相応しい自由で感情的、ロマンティックな曲風になり、ブラームスの創作の粋を詰め込んだようなこの第二楽章を大胆に締める。


「別に在学中に奏弥とどうにかなろうとは思ってなかったけど、やっぱ気になるには気になるから、あのとき一緒に演奏してた弦楽部の奴らには確認したんだよ。そしたら、特にお前のこと好きとかではなかったんだ。それってつまり、個性のせいで俺がお前のこと好きになったわけじゃねぇってことだろ?」

「…、まぁ、そうなる」

「つまり俺は、あのときの奏弥の演奏聴いて、あんな情熱的で、でもどこか寂しくて、そんな愛のある曲を演奏してるお前に一目ぼれしたんだよな」


突然のカミングアウトに驚くと同時に、そんなに強い感情を抱いてくれたのかという気にもなる。だってまだ中学生だ。


「今日だって、奏弥だから俺は二つ返事で頷いたんだ。場合によっては、人の精神を操るのに適したヒーローを警察に勧めてたし。それでも俺が来たのは、奏弥だったからだ」

「…上鳴君……」

「…俺は、奏弥が自由に、今までみてぇにのびのびと演奏してくれたら嬉しい。でも、やっぱすぐには難しいだろうし、奏弥にとって命みてぇに大事な音楽でこうなってるのはつらいんだろうなって思う。そう気づいたら、俺、お前のこと、もう放っておけねぇよ」


上鳴はそう言うと、奏弥の肩を優しく、しかししっかりと掴んだ。


「さっきの舞踏への勧誘みてぇに、最後、爽やかに寂しさも感じつつ別れるのが理想なのかもしれねぇ。大人なのかもしれねぇ。けど俺は、ぶっちゃけチャラい自覚はある。やっぱ俺まだお前のこと好きだし、今日、尚更そばにいてぇって思った。だから奏弥、」


舞踏への勧誘は最後、再び低音と高音による冒頭が再現される。しかしそれは、爽やかでゆったりとした終和音。2人は別れて、また会えるかも分からないまま、夢の時間を後にする。それは大人っぽくて理想なのかもしれないし、中学から時間が経っている2人にはそれが良いのかもしれない。


「…俺は、奏弥のことが好きだ。俺にお前のこと、支えさせて欲しい。一番近くで」

「……ちょっと、ずるくない…?そんな言われ方、」


真摯な瞳に見つめられ、心が揺らいでいる奏弥は、すぐにぐらつく。しょうもない抵抗のように言うと、上鳴はやはり、ニヤっと笑った。


「わり、俺もなりふり構ってらんねぇの」


赤面しているのは分かっている。仕方ないだろ、なんて、誰も聞いていないのに心の中で呟く。

もしかしたら今は、第三楽章なのかもしれない。シリアスな展開になることが多い第三楽章を経て、第四楽章の明るく壮大なフィナーレに続くのが定番の交響曲だ。そして、次に進む指揮者は上鳴だ。


「…復帰したらお前より稼ぐからね」

「うわ、そうじゃん!いやでも俺だって…」


ちょっと本気で焦る上鳴に少し笑って、奏弥は座ったまま上鳴の腹あたりに頭をもたれさせた。上鳴はそれを受け止め、頭を優しく撫ででくれる。


「…ちょっと待ってて、自分の気持ちに整理つける」

「おう、何年でも待つぜ」


変わらない調子で言ってくれる上鳴は、やっぱりヒーローなんだな、と奏弥は思いながら、そのシャツを掴んで目を閉じた。


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