風と心の鍵−9
希糸は立ち止まり、振り返るイナサを見上げる。改めて、20センチの身長差がはっきりとするようだ。
「…待ってろっつったの、このことだったんだな」
「そうっスよ!俺、ぜってー先輩の無実証明してやるって思って、毛原先輩に頼んで一緒に捜査してたんス!」
「…なんで、そこまで…いくら状況証拠っつっても、俺にしかできるヤツいないだろ」
「実際はできなかったじゃないっスか。俺は最初から先輩はやってないって信じたっスよ」
「なんで」
疑われたのは身から出た錆だ。希糸の態度は悪かった、それで疑われるのは仕方ないことだ。普通、こんな不良がピッキングなんて個性を持っていれば疑う。
しかしイナサは、それでも希糸のことを信じていたらしい。それを希糸は聞いたが、聞きながら、答えが分かっている自分がいた。
「先輩のこと好きっスから!先輩はそういうことするヤツじゃないって、俺は信じるっスよ。どんなときでも、俺は絶対先輩の味方っス」
ニカ、と笑うイナサは、毎度ながら本当にそう思って言っている。
もう負けだ。希糸は内心でそう一言呟いてから、正面に立つイナサにおもむろに抱き付いた。厚い胸板に顔を押し付けるようにして抱き付くと、イナサは驚いて肩を跳ねさせる。
「えっ!?先輩っ、」
「……ごめん、俺、お前にひでぇことばっか言ったろ」
「…?先輩…」
イナサは動揺しつつも、そっと希糸を抱き締め返す。この前はもっと激しいことを散々したというのに、不慣れな手つきだった。
「…俺は、ずっと誰かに、肯定されたかったんだろうな。親でも教師でもダチでも…誰でもいいから、認めて欲しかった。俺自身を、受け入れて欲しかった」
素直に、希糸は自分で分かっている自分のことを告白する。希糸は自分の置かれた状況と心境を、きちんと理解していた。分からないほど馬鹿ではなかったし、馬鹿になれなかったのだ。
「でも親も誰も俺を認めようとはしなくて、親は俺をステータスの道具みてぇに扱って、学校のヤツらはヒーロー科差し置いて、って目で見て来た。勉強なんて、副産物でしかねぇのに」
勉強ができるという点しか評価しない教師と生徒、そうして安定した将来を生かせようとした親。勉強なんて、誰でも素地は同じだ。そんなことではなく、希糸自身の人間的な部分を評価して、考えを聞いてくれるような人が欲しかった。
「…あの期末の事件で、俺にはそういうのはもうありえねぇんだって分かって、それで俺は屋上に逃げた。逃げたんだ。自分で尖っておきながら自分で触れてもらえねぇっつって逃げた」
屋上誰も来ない。それは、誰にも受け入れられない苦痛から逃れる自衛だった。
それなのに、希糸は心の奥底で願っていた。
「…でも、ほんとは、誰かに来て欲しかったんだろうな。自分で鍵かけときながら…その鍵、お前がぶっ壊したんだ」
物理的に屋上の扉を壊して入って来たのは、個性の訓練のために屋上を利用しようとしたイナサだった。そしてイナサは、希糸の心をも開いた。
「お前が俺に本気でぶつかってきてくれること、分かってた。好きって言われたのは驚いたけど、それが本気だってのも分かってた。今だって、俺のこと本気で思ってくれてるから、こんなことしてくれたんだって分かってた。それでもいちいちお前に悪口言って、ひでぇ態度取って、わざわざなんで、なんて聞いたのは、試してたんだ。お前のことを本当に信じていいのか、自分を見せていいのか、試してただけだったんだ」
石橋を叩いて渡るタイプなのかもしれない。しかし、そのために希糸はイナサにひどいことをたくさん言ってきた。それでも屋上にやってくるイナサに、とても安堵していたのだ。信じられるのではないかという期待、それで裏切られたらという不安、それがせめぎ合っていたときは一番ひどくて、イナサを自分から離そうと、「死ね」と言ったり、家に連れ込んであんなことまでした。
「…ごめん、ほんと、ごめんな」
「…そういうのはさすがに分かんなかったスけど…でも、なんつか警戒心すごい猫が懐いてくれたみたいで可愛いっスね!」
「……猫」
「うす!俺は気にしないっスから、先輩が怖くなったらいつでも受け止めるっス!さっきも言ったけど、どんなときでも俺は味方だし、先輩のことが好きっス!!」
自分の拙いガキのような、事実ガキであるが、希糸の感情を告げても、イナサはやはりあっけらかんとしていた。そして、強く抱き締めてくる。本当にイナサには適わない。
胸元に抱き込まれながら、ついに口を開いた。
「…好きだ、イナサ。俺も、イナサのことが、好きだ」
「っ!!先輩!!!俺も好きっス!!!!」
「うっ、苦し…!」
抱き締められながら言うと、イナサは苦しいくらいに抱擁をかましてきた。それでも、その温もりにひどく安心して、筋肉質な体に四方から圧迫されるこの感覚に落ち着いてしまった。認めてしまえば、希糸も相当、イナサのことが好きなようだ。
仕方ないだろう、ここまでイナサは希糸の鍵を開けてしまったのだ。こうまでされて落ちない方が難しい。
「…ありがとうイナサ、信じてくれて」
「当然っス!あー、マジで希糸先輩好きだ、かわいい」
しれっと、希糸もイナサも初めて名前を呼んだ気がする。テンションが上がっているイナサは気づいていないようだ。
もし犬だったら、イナサの尻尾はぶんぶんと振れていたことだろう。それを想像したらなんだかおかしくて、「ふっ、く…っ、」と笑いを漏らす。
イナサはびっくりしたように、体を離してこちらを向いた。
「うわ、希糸先輩が笑ってる」
「ふ…や、だって、イナサなんか、犬みてぇ」
そう言って笑いながらイナサの坊主頭を制帽を取って撫でる。背が高くて大変だが、イナサはまたも驚いたようにしてから、感極まったように希糸を抱き締めた。
「名前!!」
「今そこかよ」
ふは、と希糸はまた噴き出して、そして、うっすらと浮かんだ目じりの涙を誤魔化すように、イナサの体にそっと体を寄せた。