海の悪魔−8
「ご苦労だったね」
日も完全に沈み、灯台の灯りがついた頃。埠頭の先では洋平と父親が感動の再会を果たしていた。朝祇たち4人がそれを少し離れたところで見守っていると、椿がやって来た。
「もみあ…椿先生、どこ行ってたんですか」
燐は隣にしれっと立つ椿に驚きながら言った。もみあげと言おうとしたのがモロバレである。
「いやぁ、もし本当にクラーケンならきちんとした対応が必要だからネ。色々と調べてたんだが、どうやら危険がないことが分かってね」
椿が言うように、どうやらクラーケンは心を入れ換えたらしい。洋平の父親と海上で日本の位置を見失い、ずっとさ迷っていたのだそうだ。やがて父親とクラーケンの間には何やら友情のようなものでも芽生えたのか、クラーケンは悪さをしなくなったらしい。
「けど親父!男が1度倒すと決めたら、」
「くどい!もっとイカの刺身のように淡泊になれ!ときには1度決めたことを変える勇気を持つのも男、男とはそういうものだ!」
「そ、そうなのか…親父、俺、一皮剥けた気がするよ!」
「うむ。よし、来い!洋平!」
「親父!」
何やら熱く盛り上がる親子は抱き合い、燐は「いい話だよな」と涙脆く目頭を押さえる。どこがだ。
「悪魔も改心することがある。そのことを伝えたくてね…君たちを呼んだ甲斐があったというものだ」
「絶対嘘や…」
椿は椿で取って付けたように白々しく言ってのける。よくもまあぬけぬけと。呆れたような廉造の呟きに、出雲もしゃがみこむ。
「もう…サイッテーーーー!!!!」
***
夜。朝祇は何となく眠れなくなって、熟睡する燐たちを起こさないように気を付けてジャージ姿のまま民宿を出た。階段を上り堤防に上がると、海原と月が広がっていた。
打ち寄せる波の音が辺りに響き、夏らしい虫の音がその合間に聞こえた。遠くの山からはセミの鳴き声もして、心が凪いでいく気がした。
しばらくそうしていると、階段のアスファルトを踏むサンダルの音が加わった。気配で誰か分かったため、特に何も言わずに待つ。
「…寝れないん?」
「…まぁね。起こしちゃった?」
「目ぇ覚めてもうただけやで」
廉造は堤防に座る朝祇の隣に腰かけた。少し山から海に吹く風が冷たく感じていたが、廉造が隣に来て、その温もりの方が大きい。
「……どうかしたん?」
「…よく分かったな」
「そら朝祇のことやもん。分かるで、すぐに。何が朝祇を落ち込ませてるのかまでは分からんけど」
なんで廉造はこんなにも軽微な変化に気付くのだろう。朝祇は不思議に思うが、きっと朝祇も廉造の変化に気付けると思う。そんなことが手に取るように分かってしまって、少しくすぐったい。
落ち込んでいる、といえば落ち込んでいるのだろう。自分でもよく分かっていない。だが、隣の温もりはもっと欲しいと思った。
朝祇は体を左に傾けて、廉造の右肩に凭れた。廉造は何も言わずに肩を抱いて支えてくれる。一気に近くなった温もりが心地いい。
「…『天の原 ふりさけ見れば春日なる三笠の山に出し月かも』ってあるだろ」
「阿倍仲麻呂のやつやろ」
「そうそう。……思い出してたんだ、父さんと2人で月見したときのこと」
天の原、の和歌は阿倍仲麻呂が詠んだとされる歌で、土佐日記にも登場する。中国から日本に帰る船を待つ阿倍仲麻呂に、中国の人々が別れを惜しむ宴会を催し、阿倍仲麻呂がその礼に詠んだものだ。
古来より日本では月は「山の端」から出るものだった。しかし港町には当然山の端などなく、月は海から上る。それを踏まえ、春日大社の東にある三笠山から出る月も、中国の港町から見える月も同じなのだから、きっと人の心も同じなのだろうという意味を込めている。
朝祇も、かつて離婚する前に父親と2人で月見をしたときのことを、この海を見て思い出したのだ。
「母さんは仕事でさ。普段あんま喋らない父さんと2人で、ただ月を見てただけだったんだけど。たまに学校のこととか、友達のこととか話して…あのときは、ちゃんと家族だったんだ」
「朝祇……」
廉造はすべて知っている。離婚したことも、父親はすぐに朝祇の親権を放棄したことも。父親はそのときすでに、他に女と子を抱えていたことも。
「…家族、だったんだ……」
洋平たちを見て、あのときと同じ月を見て。ふと、思い出してしまったのだ。特に悲しくて泣いてしまいそう、なんてわけではないけれど、廉造に分かる程度には落ち込んでいたのだ。
「……俺もな、昨日同じ和歌思い出してん。せやけど、俺は全然同じやないやんけって思ったんや」
すると、廉造が朝祇の肩を支えながら喋り出す。凭れているから耳元が近く、波音に消されずはっきり聞こえる。
「俺が月見上げるときは、いつも嫌なことがあって、もう嫌や、って思っとったときだけやったさかいに、昨日は全然違て見えたんや。なんでか分かる?」
「……?」
「朝祇がおるからや」
そう言って、廉造は朝祇の顔を覗きこむ。驚いて体を離すと、廉造はくすりと笑った。
「朝祇のこと考えとったさかい違て見えたし、今も朝祇とおるから全然別モンに見えるで。こないに月て綺麗やったかなぁ、ってな」
「なんだ、それ…」
当たり前のように言う廉造に、つい顔が赤らんでいる自覚はある。月の光に照らされた顔は、柔らかく微笑んでいる。それに見つめられるのが、恥ずかしくて、どうしようもなく嬉しかった。
「せやから、月が綺麗ですねって、よう言うなぁって思うわ〜。その通りやもん」
「あーもー……死んでもいい」
臆面もなく言ってのけるものだから、朝祇は恥ずかしくて廉造の肩に顔を隠すように顔をおしつける。そして、小さく返事をしてやった。くつくつと廉造が笑う振動が伝わる。
「ホンマかいらしなぁ、朝祇は。俺もう朝祇おらんかったら生きてけへんさかい、責任とってずっと一緒におってな」
「太宰治みたいになったら許さないかんな。一緒に死んでやるからお前もどっか行くなよ」
「おん、任せとき」
流れ寄る八重の潮汐、いつの日にかやって来るそのときまで。
月明かりの下、2人の影が重なった。