夏ノ日ヲ想フ−9



どうしようもない、分かっていても、それでも、目の前の千秋を見殺しにすることなどできるはずもなかった。
頬を伝う涙を乱暴に拭う。しかし、視界は霞んだままで。


「…柔造。子供を助けたら、俺が絶命するまでほんの少しだけあると思う。きっと、すごく痛いだろうし、苦しいだろうし、正直怖い。だから…だから、読んで欲しい聖書の一節があるんだ」


千秋は重ねていた手を柔造の手に絡め、寂しげに笑いながら目を合わせた。


「それで、側にいて。手を握ってて欲しい」


大正六年の大津波で家族をなくした千秋の心に、きっとずっとあったのだろう。一人でいたくないのだという寂しさが。
最期くらい、一人にしたくなかった。柔造は頷いて、ふらりと立ち上がる。


「まだ、2回しか授業してないけど。…最後の授業だ。志摩君、詩篇23篇を」


地面に落ちていた聖書を拾い上げ、指定されたページを開く。詩篇23篇。ダヴィデの讃歌。

死の際に好んで読まれるものだ。

千秋はイタズラっぽく、詠唱術の授業のように言った。柔造は笑い返すことこそできなかったが、強く、その手を握り締めた。


「…仮令(たとい)、死の陰の谷を歩くことがあっても、私は禍を畏れません。あなたが私とともにおられますから。あなたの鞭とあなたの杖、それが私の歓びです」


一緒にいて欲しい、という気持ちの現れもあってこれを指示したのだろう、と柔造は気付いて、堪らなくなる。そして、やはり何とかして助けたい、と思った瞬間だった。

突然、背後から眩い光とともにポンっと音がした。
慌てて振り返ると、先程ガラス片を放り投げた紙の山とその背後の辛うじて残っていた扉が光っていた。
そして、その扉の前に、ピンクと白の奇抜な格好をした長身の男が立っていた。



「ご機嫌よう!ちょうどどのようにして東京に行こうか考えあぐねていた私の移動を手伝って下さったのはあなた方かな?」

「は……」


柔造はもちろんのこと、千秋もポカンとしている。当然だ、あの扉は壊れて向こう側は瓦礫の山。どこから男は来たのか。


「私はメフィスト・フェレス。正十字騎士團ヴァチカン本部の祓魔師です。日本支部の鍵を結んでいた扉が軒のみ壊れてしまいまして、私も行ったことのない土地へ瞬間移動はできないものですから。そうしたらあなた方がちょうど…見たところ偶然のようですが、詩篇を詠唱して東京側から時空を越える扉の片方を開けてくれたものですから、チャンスと考えてヴァチカンからやって来た次第です。お分かりですかな?」


行きもつかせぬ速さで喋られて何も理解できなかったが、千秋は何となく分かっていたようだった。


「フェレス卿はなぜここに…」

「三賢者が私という厄介者を遠くにやりたかったようで、帝都東京の壊滅を機に日本支部の支部長をやれと仰せつかったんです。まぁ、詳しい話は瓦礫から出てからでもいいでしょう。アイン、ツヴァイ、トライ!」


メフィストはそう言うと、傘で瓦礫をつついた。その瞬間、梁ごと天井などの瓦礫が一斉に浮き上がる。


「さぁ、早く出てください」


柔造はハッとして、まず千秋を瓦礫の下から引きずり出して、ついで子供も助け出した。

メフィストはそれを確認すると傘を下ろす。同時に瓦礫も地面に崩れ落ちた。


「さて、やることは山ほどありそうですね…」

「ちょっと待ってください、なぜそんなに早くヴァチカンは東京のことを…」

「日本で起こった巨大地震を感知する程度の地震計くらい、欧州のストラスブールなどにありますよ。先進国ですから」


メフィストはぞんざいに言うと、辺りを見渡してため息をつく。火災はどんどん拡大し、月島や佃、日本橋、銀座、有楽町、新橋を飲み混んでいた。


「あなた方も早くお逃げなさい。日本支部のことは追って連絡を差し上げます」


柔造はそんなメフィストへの不信感を抱きつつも、あっさりと助け出された二人を抱えて歩き出す。話は落ち着いてからだ。



***



1933年9月。
東京市蒲田区、正十字学園町。

あの震災から10年が経った。帝都はすっかり復興し、モダン都市として世界に名だたる都市となった。洋風建築というよりは、アメリカないしオリジナルの洋風テイストな高層建築があいついで建てられた。
大規模な区画整理によって整然とした街路に、大きなビルが立ち並ぶ。路面電車は緑色の青電車に変わり、銀座には和光の時計台のあるデパートや三越の建物が聳え立つ。

蒲田区の正十字学園町は、その名の通り正十字学園が居を構える町である。小山に洋風の学校校舎が立ち並び、麓には関係者の町ができる。モン・サン・ミッシェルを思わせる壮観な光景を背に、二人の青年が多摩川の橋の欄干に寄り掛かるようにして立っていた。


その片割れ、千秋は、正十字騎士團の黒いコートに身を包み、黒いハットを被る。
そして隣に立つのは、スーツ姿の柔造。その身長差は昔と変わらない。


「10年振り、とは思えへんなぁ。東京はこんなに変わったいうんに」

「あの2年が濃すぎたんだ。こんなもんだよ」


あのあと、柔造は実家に呼び戻され、塾と中學校をやめた。東京にいる間に何度も話したが、結局付き合ったりはしなかった。同性どうしが許される時代ではないし、流行りの心中をしようなどとは、あの震災を経験して思えなかった。
そして柔造は、密偵の役割を終えたと自分で報告してくれ、京都へと戻った。東京と京都は遠すぎるし、何より互いの生活に戻るべきだった。そういう意味で、何か特別な関係になろうとはしなかったのだ。

ちょうど東京も、二人が慣れ親しんだ景色ではなくなってしまった。浜松町駅は大きくなって区画整理され、金杉新浜町は芝浦一丁目となった。銀座は大きな建物と最新のブランドが軒を連ね、モダンガール・モダンボーイ、いわゆるモガとモボが集まる街となっていた。日本橋にあった魚河岸は築地に移り、浅草六区はモダンの建物で復活したものの凌雲閣は再建されなかった。東京駅だけが残ったが、帝国劇場などはすべてなくなってしまった。

そんな大きな変化を経て、あの頃の面影はほとんどなくなった。それもあって、二人の関係も完全にリセットされて、旧友という枠に収まったのだ。


「……結婚したんだってね。おめでとう」

「ありがとぉな」


柔造は、最近同じ僧正一族の女性と結婚したらしい。これで志摩家も安泰だろう。


「千秋は、どないするん?」

「俺は、学園を守るよ。もともと、孤児で生きてないようなもんだから…徴兵されないわけだし、この学園が今後も存続できるように」


満州事変を起こし満州国を成立させた大日本帝國は、国際連盟からも警告されていた。中華民国との戦争は避けられないだろう。ドイツ共和国もナチスが政権を取って3月の選挙で過半数をとり、7月までに全権委任法と他政党の解散を実施し、事実上の独裁国家となった。
世界がキナ臭くなっているのだ。

日本も正十字騎士團に対し、戦争協力がなければ解散させるとし、メフィストはそれを拒否。正十字騎士團の活動は非合法化され、昨年に蒲田区ができて正十字学園が移転してきてすぐにこれも停止させられそうだ。だが、祓魔師を絶やすわけにはいかない。

戸籍がなく徴兵されない千秋は、学園を守り通すのに適任だった。上一級祓魔師としての責務である。


「この国がどこへ向かうかは分からないけど…お互い、生き抜こう」

「……おん、当たり前や。先に逝ったら許さんえ」

「お前もな」


笑いあって、柔造は駅へと続く道の方へ向く。そろそろ電車が来る時間だ。


「柔造!」

千秋は最後に声をかける。頭には、あの瓦礫の山での涙の記憶。




「好きだったよ!」



「…俺も、好きやったよ」





苦笑する柔造は、大人の男の顔で、家族を持つ者の顔だった。それでいい。


あの日、柔造が涙ながらに読んでくれた一節が、奇跡を起こして千秋の命を救った。だからこうして、また笑顔を見せ合える。それだけで、幸せだった。

歩き去っていく柔造に背を向けて、千秋は学園へと向く。
柔造に助けられたこの命。学園を守り、また新たな祓魔師が誰かを救えるように。
そして、平和な世界を作ってくれるように。


十字架を握り締めて、千秋は歩き始めた。


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