priceless preciousness−5
目が覚めると、床の冷たさと固さがまず感じられた。暗いのは視界が塞がれているからではなく、単にこの空間に光源がないだけだ。
千秋は両腕と両足を縛られて口にタオルを噛まされており、暗い部屋の中に転がされていた。何とか目を凝らすと、綺麗な直方体なのが分かる。拘束はとても解けそうにない。
せめて光があれば、と思ったところに、金属音とともに突然光が差した。咄嗟に意識のないフリをすると、男たちの声が聞こえてくる。
「くそ、他のターゲットがいないぞ」
「話が違う…!」
うっすら目を開けてみると、観音開きで扉が空いている。その向こうは外だ。これで分かった。
ここはトラックの荷台、コンテナ内である。トラックで誘拐するつもりなのだ。
会話からして他にもターゲットがいたようだが、車内には千秋しかいない。
「ちっ、仕方ない、1人だが行くぞ」
まずい、動き出せばいよいよ助からない。ここで抵抗しなければチャンスは一気に減ってしまう。
千秋は口を思うように動かせないなりに、腹の底から大きな声を上げて叫んだ。
「ん〜〜ッ!!!」
「やべ、起きたぞ!黙らせろ!!」
男の1人は慌てて車内に入ってくると、こちらに駆け寄る。
「うるせぇ!殺すぞ!!」
刃物をちらつかせる男に、喉がひきつる。声が出なくなったのを見て、男は鼻で笑った。
「そうそう、それでいーんだよ」
ダメだ、これは逃げられない。諦観が浮かび、千秋は視線を下に向けた。男たちの目的は身代金だろう。両親は迷惑をかけたと怒るだろうか。もしかしたら、別の子供を作ると言い出すかもしれない。所詮、その程度の存在なのだ。
男がナイフをしまい、コンテナの扉へ向かう。寝てしまおうか、と目を閉じる。じわりと何かが網膜に浮かぶような気がして、きつく瞼を閉じた。
「千秋を返せぇッ!!!」
突如として、そんな怒声が響き渡った。聞き慣れた声に、目をパッと開く。
外にいた男の焦る声が短く聞こえた。
「なっ、なんだお前!うわぁっ!!」
どさりという重い音。まだコンテナ内にいた男は、それを見たのか、急いでこちらに戻ってくる。
「くそっ、なんでバレた…!?」
「千秋ッ!!」
すると扉から声がコンテナに響く。低く荒々しいそれは、怒りと焦り、そして心配が如実に現れていた。
「く、来るなぁ!こいつがどうなっても―――!」
男はナイフを再び取り出そうとしたが、燐はコンテナ内に飛び込んで瞬時に距離を詰めると、床を蹴って跳躍し、壁に足をついてから、強烈な回し蹴りを男にお見舞いした。男は呻くことも、ナイフを取り出すことすら叶わずに倒れ伏す。
「大丈夫か!?」
燐は男に一瞥もくれず、千秋に駆け寄って拘束を解いた。手足と口が自由になって起き上がると、燐は怪我がないかくまなく見渡す。
「怪我ねぇか!?」
「大丈夫…それより、ありがとう、来てくれて」
「当たり前だろ!!」
意識を失う直前、指紋認証で開いたスマホの緊急通話をかけることに成功していたらしい。異常を察知した燐は、この猛暑の中で動き回ったのだろう、汗だくになっていた。
それにしても、本当に腕が立つ。あっという間に男たちをのしてしまったのだから。
「…ほんと、ありがとう」
「マジで心底した…ほんと怪我ねぇよな」
「大丈夫だって…あ、でも、ちょっとクラクラする」
薬品の影響だろう、少し眩んで、上体を起こす千秋を支える燐に寄り掛かってしまった。その肩に頭を載せる。
「うお、わり、汗臭くね…?」
「…へーき……」
むしろいい匂いがする、とはさすがに言わなかった。
安心する燐の匂いと体温、耳もとで優しく響く声。それらを感じて、安堵とともに改めて先ほどの恐怖が思い起こされる。
「……誰も、助けてくれないかと思った。見放されるって」
「………」
燐は、千秋の両親がどんな人物か知っている。千秋がどんな暮らしをしてきたかも。千秋が感じた恐怖も、どういうものか察しただろう。
「…俺は、何があってもお前を助けに行く」
「そりゃ、それが仕事じゃん」
つい、そんな言い方をしてしまった。助けてもらいながら随分嫌味っぽい言い方になってしまい、すぐに後悔する。
「ごめ…」
「仕事だから助けないといけないなんて、思ったことないぜ」
「え……?」
しかし燐は怒るでもなく、優しくそう言った。後頭部を撫でられ、言葉に詰まる。
「お前が二宮家の子息だから助けるんじゃねぇ。千秋だから助けんの。大事なやつ助けるのに、理由なんかいらねーだろ」
「燐……?」
ふ、と笑うと、燐はそっと千秋の額に唇を押し当てた。それが意味することなど、明らかだ。
「なっ…!」
「好きだよ、千秋。お前のこと、守りてぇの。だからさ、仕事でも何でもいいから、守らせてくんね?」
それは、千秋が無意識に求めていたものであり、求めてはいけないと自制していたものだった。
「…お、れ……」
声が震える。至近距離で目が合う。燐は柔らかく笑って頷き、先を促した。
「あ、愛されたい……誰かと、側にいたい……燐と、側にいたい、愛したい……!」
ぽろ、と先ほど我慢したものが零れ落ちる。燐は優しくそれを親指で拭ってくれた。
「俺でいーなら喜んで。すっげー愛してやるから覚悟しろ?」
ニヤリと雄くさい笑みを浮かべながら、なおも優しい声音で燐は言ってくれた。欠けていた、足りなかったものが埋まる感覚が、次々と目から雫を押し出していく。
ぎゅ、と目の前の燐に抱き着くと、抱き締め返される。その優しい力強さは、きっと今までずっと欲しかったものだった。
それは、間違ってもお金では買えないもので、どんなものよりも価値のあるものだった。