第三話: 情報屋−6
かつて、モナコにいた頃。
雇い主の男に情報屋としての技を仕込まれる過程で、パリの同業のレディに「色仕掛け」を叩き込まれた。極東のイエローモンキーが欧州の金持ちに挑むのだ、それはもう大変な思いをした。
彼女は言った。
「男でも女でもあり、男でも女でもない。あんたはあんたとして魅せるんだよ」
その性的な魅力とは、男性性や女性性ではない。人として本能を揺さぶるものであれと教えられた。
「一番大事なもん、それはね、匂いだよ。香水は肌から体内に入り血液とともに巡る。その過程でその人物自身の匂いに変わる。フェロモンを失った人間にとって、第2のフェロモンがパフュームだ。あんたには、No.5を勧めるよ」
彼女から勧められたのは、世界でもっとも有名な香水だった。てっきり、ディオールオムやアルマーニを指定されると思っていた。女性もの、それも3秒に1本売れるとされる香水だ。
「ココ・シャネルは、天然ものばかりだった当時の香水は働く女に向かないと気づき、化学薬品を混ぜた。それは香水の歴史において初めてのこと。人工の、それも毒を混ぜるなんてのは、まさに1920年代文化の象徴さ」
CHANEL No.5は、初めて化学薬品がブレンドされた香水だった。その薬品はアルデヒド、単体では毒となる物質だ。
1920年代から30年代というのは、毒があることこそ美しいというのが、とりわけ米国の文化となっていた。女たちはこぞって酒、煙草、薬に手を出した。
大量生産が無機質で工業的なデザインを社会に溢れさせ、政府は退廃した社会を律しようと禁酒法を制定した。
しかし禁酒法から逃れた人々は地下へと潜り、非合法取引を続けた。その場所に楽器を持って集まった移民たちが生み出した音楽がジャズだ。
ミュージカルCHICAGOは、そんな時代にあって夫を殺した二人の女性シンガーを主人公とし、没落からの復活を描く。夫殺しを逆手にとって世間の注目を集めることで舞い戻ってきた二人は、最後にシカゴの中心のステージでこう歌う。
「All That Jazz なんでもありよこの街は!」
そんな時代を象徴する香水でもあるNo.5は、毒を複合し、名前も5番目の調合であったことだけを意味し、ボトルも工業的な直線だった。なんの飾りもない。それが価値なのだ。
「自分の魅力は自分であることよ。女の魅力は女であることじゃないし、男の魅力は男であることじゃない。匂いは最もそれをよく表現してくれる」
そう言った彼女はその後、様々な話術や手管を漣に教えてから、試験と称してパリ、バルセロナ、ミラノ、ウィーンで男女を5人ずつ引っ掛けて来いと漣をモナコから追い出した。
偏屈なパリ、情熱のバルセロナ、保守的なミラノ、寡黙なウィーン。それぞれの都市でそれぞれのタイプを誑かした漣は、そうしてようやく一人前だと認められたのだ。
「もうあれから何年かなぁ」
懐かしく思いながら、漣はソファーの前のローテーブルに、ポケットから取り出した折り畳めるタブレットを置く。写真立てのように立ててスイッチを押すと、タブレット下部から光が放たれる。赤い光は机にキーボードを照射する。このキーボードは光だが、遮られた位置などでタッチを感知してくれるのだ。
これでどこにいても高速タイピングで素早く作業ができる。
京谷のポケットからスマホを拝借すると、USBケーブルでタブレットに接続して情報を奪う。僅か5分でことは済んだ。
「青城セキュアカンパニーの元幹部、ねえ」
ネット上に1度放たれた情報は、相当な技術がなければ抹消できない。メールやクラウドでネットを介した京谷の前職の情報から、他のメンバーの情報を抜き取っていく。
その主要メンバーは皆、MSDの各課の課長クラスになっていた。集団転職でもしたようだ。
これだけ分かれば十分だ。
「…京谷さん、起きてください。大丈夫ですか?」
「……?」
ネクタイを締めて、エアコンを冷房に変えてから体を揺すると、すぐに目覚めた。その程度の薬しか使っていない。
京谷は辺りを見渡し不思議そうにしている。大方、漣に襲い掛かった記憶に混乱しているだろう。すでに漣はディーラーとして少し固い雰囲気に戻っている、狐につままれたような感覚のはずだ。
「軽い熱中症だと思います。今日は無理しないで帰った方がよろしいかと」
「……そうする」
考えるのが面倒になったようで、京谷はそれだけ言うとさっさと更衣室を出て行こうとする。
それに慌ててついていき、エントランスに着く前の廊下で京谷を引き留めた。
「京谷さん」
「あ?」
「……次は、ちゃんと遊びましょうね?」
妖しげな笑いを浮かべて言ってやれば、京谷は軽く目を見張る。夢ではなかったとも思わせることでさらに混乱したはず。
「…チッ、ケツ洗って待っとけ」
それだけ吐き捨てて、京谷はカジノを出て行った。どうやら意識がはっきりしても漣を抱く気でいるらしい。それに少しだけ可笑しくなりつつも、次は相手してやろう、とうっすら考えた。