第一話: 東のソドム−1


「君は、人の欲とは罪だと思うかね?」


外観の豪奢な建物の中にある部屋としては、あまりに無機質で質素な直線的な部屋。モダンといえば聞こえはいいが、内装は限りなく省くよう指示したこの老齢の男からすれば、単なるミニマリズムでしかないのだろう。
執務机に座る男の正面に立ち、聞かれたことをしばし考える。回りくどい言い方が好きなのだ。


「世界宗教のすべてが禁欲を求めているのは、それだけ人は欲深いことの現れです。しかし文明はその欲が発展させてきた。罪だというのなら、俺たちはみんな罪人ですから、地獄は労働時間がオーバーしてストライキですよ」

「はは、その通りだな」


どうやらお気に召したらしい。

香坂漣は知れず詰めていた息を吐き出した。この老紳士が喋るのは日本語で、漣も日本語だが、ここはフランス語圏。言い回しに気を付けるのは呼吸と一緒だ。

フランス南東部の沿岸にある小国、モナコ公国。世界的なカジノ国家としても知られる欧州の社交場で、漣はディーラーをしていた。
この男は雇い主だ。


「さて、欲は欲を呼ぶ。カジノなんてものはその象徴だろう。もっと、を求める場所だ」

「ええ」

「だから、君の命を狙う者がいてもおかしくはない」

「……、その手元にある航空券は、そういうことですね」

「相変わらずの観察眼だな。よくもまぁ、これしか見せていない半券で判断できたものだ」

「世界各国の航空会社のチケットを覚えさせたのはあなたでしょう。ほかのこともすべて……俺がここにいられないほどの相手だと」


男が告げることは何も直接的ではない。だが漣には容易に理解できてし、男もそうさせていた。


「情報屋としての君の実力に、ついにマフィアは恐れをなしたらしい。わざわざナポリからご到着だ」

「俺とあなたの実力でも勝てないと」

「いや?その程度ではないだろう。しかし、マフィアへの情報の流出や情報源の喪失を恐れる欧州財界の重鎮たちが亡命をご所望だ」

「なるほど……」


漣の仕事はカジノのディーラー。だが裏の顔はいわゆる情報屋というやつで、その実力は欧州の貴族たちや王室、政治家たちも一目置いていた。
その漣がマフィアに狙われていると知った彼らは、漣の亡命を望んだ。顧客の頼みとあっては男も断れなかったようだ。


「たった5年だが、日本にいた頃はとても刺激的だった。君も母国なんだ、これを期に日本で生きてみてはどうだ」


男はかつて日本に暮らしていたことがある。たった5年でこれだけ流暢な日本語を喋ってみせるのだから、どうかしている。


「俺のフランス語は10年かかったんです、そう簡単にここを離れたくはありませんが…とはいえ、どうせただ里帰りさせるつもりでもないんでしょう」

「はは、上流社会に通用するフランス語になったのは君も5年だろう。残りの5年はプロヴァンス方言を合わせて覚えただけだと知っているぞ。…さて、そんな優秀な君には、ご明察の通り頼みがある」

「頼み、ねえ…」


こんな言い方をしてろくな目に遭ったことがない。


「なに、難しいことじゃない。ACTIR(アクティア)、君も知っているだろう。そこで、同じことをしてくれないか」

「次は日本の上流社会を手篭めにしろと」

「つてはある。というか、もう君の就労先は決まっている」

「……、住民票はおろか国籍もまだあるか怪しいですよ」

「ACTIRは臨海特区という治外法権、日本人を含め居住は許されていない。国籍がなくともバレやしないさ」

「……分かりました」


あぁ、これはもう、そういうことなのだろう。
さすがの男でも、最強のブランドである日本国籍は盗めなかったらしい。それは問題ないのだが、ここまでしてくれたということは暗に別れを意味している。
頼みと言いつつ、男は漣が生きていく当てを用意してくれただけだった。つまり、もはや漣はこの小国に戻ることはない。
男は情報屋としてのすべてを漣に伝授した人物であり、彼もまた多くの情報を持つため、一歩この国を出れば命が危ない。漣が日本に行けば、会う術はなかった。


「Bon Voyage、我が息子よ」


ぐっと唇を引き締め、声を震わせないように「あなたも」とだけ返した。きっと、この男には意味のない虚勢だっただろうが。

そして漣は飛び立った。巨悪と陰謀の渦巻く、最果ての母国にある大遊戯場へ。


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