″必要″−4
東京に来て、自分が元から他者と関わるのが億劫だったこともあり、伊吹は孤立を貫いていた。
バレーに関わっていたくてバレー部に入ったが、叔父の家に世話になっている身で選手をやるのは気が引けてマネージャーを選んだ。
入ってみれば、古豪というわりに3年が横柄な態度を取っていて、2年Lの夜久などスタメンクラスがインハイ予選には出られないことになった。レギュラーではあるため試合には同行するが、恐らく出番はない。
どうやら猫又は完全な実力主義にするには、一度3年のプライドをインハイでへし折る必要があると考えているのだろう。
そんな環境に呆れた伊吹は、部活でも人と関わることは最低限で済ますだろうと思っていた。
しかし、そんな伊吹を放っておかなかったのが、2年の黒尾だった。185を超える長身で体格も良く、MBとして実力も高い。社交的で友人も多そうだ。
そんな黒尾は、なぜか伊吹を構うようになった。同じ1年とも喋っていないうちから、なぜか上級生の黒尾とは喋ることが多くなっていた。
話すうち、必要なものを揃えるために新宿に一緒に行こうとまで言い出して、2人で新宿を歩いたほどだ。付き合わせることも、よく知らない先輩と2人きりというのも嫌だったのだが、人混みの中で黒尾の隣にいた時間は、あまり悪いものでもなかった。
先日、様々なストレスが溜まりすぎて体調を崩した挙げ句に過呼吸になってしまったときも、黒尾に「大丈夫だ」と言われるごとに落ち着いて、わりとすぐに治ったのを覚えている。
あれ以降、山本はすっかり伊吹を構い倒すようになり、具合は悪くないか、疲れていないか、腹は減ってないかなど孫の訪問を喜ぶ祖父もかくやというほどだ。
黒尾に何か言ったのかと聞いてみても素知らぬ顔をされた。
絶対に何か言ったはずだが、いまだ言質は取れていない。
そんな黒尾も、山本に負けず劣らず伊吹に絡んでくる。
同じシングルの家庭だという黒尾は、伊吹の機敏に敏い。状況が近いため、察することが容易なのだろう。
梅雨の合間に晴れたその日も、黒尾は伊吹の感情に先回りしてみせた。
爽やかな部活後の夕暮れ、なぜか2人きりになった部室で、部員で遊びに行こうと誘われたときだった。
「その日、家の手伝いあるんで」
「オフそこしかねぇのに〜。てか、手伝うってパン屋だっけ?」
「そうです。休みだし、混むから」
「でもさ、親戚なんだし、一日くらい頼んでみれば?」
親戚だから頼めないのだ。伊吹は内心でそう返した。
父との結婚を良く思っていなかった母の実家は、その子どもである伊吹のことも否定的で、とても母とともに実家に行くことなどできるわけもなかった。
母はストレスで体調を崩しがちになり、これ以上2人でじり貧になるよりも、母に回復してもらいたい。そう思って、伊吹は母に実家へ帰ってもらい、自分は親戚を頼ることになった。
叔父夫婦は子どもがおらず、いきなり高校になる子どもを預かることに動揺していた。吉祥寺でパン屋を営む2人は日々忙しくしていたが、そんな中でも伊吹との距離の取り方を必死で捉えようとしてくれているようだった。
そんな2人に報いて、厄介者の自分が少しでも2人の家に滞在させてもらえるよう、パン屋の手伝いを買って出た。自分の居場所を担保するために、手伝いをして小遣いすら貰わずに頑張ることが伊吹に課せられた義務だと思った。
「……ひょっとしてさ、伊吹、叔父さんたちの家に気ぃ遣ってる?」
「…、つかわないわけ、なくないですか」
「そりゃな?でも……俺は気を遣い過ぎる必要もねぇような気がすっけどな」
「なんで分かるんすか」
誰もいない部室には窓から西日が差し込む。そのオレンジに照らされて、黒尾は日誌を書くために座っていた椅子を立ち上がる。
棚にビブスを畳んで仕舞っていた伊吹は、近付いてきた黒尾の顔を見上げた。
仕方ねえな、とでも言うような、優しい目だった。
「だってお前、叔父さんたちのこと好きなんだろ。優しくて、気を遣ってくれる人たちだっつってたじゃん」
以前、2人で新宿に行ったとき、黒尾が尋ねてきたのだ。叔父は優しくしてくれるのかと。
「あのときの伊吹、本当のこと話してんだなって分かった。そんな優しい人たちなら、お前から歩み寄ってもいんじゃね?」
「っ、歩み寄る…?」
黒尾は、立ち上がった伊吹の頭をぽん、と撫でる。立ってもなお、15センチ以上にもなる差は埋まらない。
「叔父さんたちも、伊吹の気持ちとか、やりたいこととか、意見とか、聞かないと分かんねえだろ。言ってくれなきゃ、近付けねえだろ」
「…、でも、」
「恐い?近付かれて、呆れられて、居場所なくすのが」
「っ、なんで」
なんでそこまで分かるのか。伊吹は図星を言い当てられて動揺した。
何かわがままを言って、預かってやっているのにと言われるのが恐かった。そんなことを言う人たちではないと分かっていたからこそ、もしそう言われたら立ち直れない気がした。
そうして恐怖を紛らわすように頑張るうちに、限界を迎えてしまったのだ。
「俺もさ、父さんに負担掛けないよう、いい子にしてねえと捨てられるかもって思うこともあった。父さんがそんなことするわけねぇの分かってたから、だからこそ、もし本当になったら、きっとだめになるって思った」
「……、はい」
「でも安心しろよ。伊吹、人と関わりたがらないわりに、人のこときちんと見てる。お前の評価や指摘を、監督たちもすげえって言ってた。お前が大丈夫って思う人たちなら、きっと大丈夫だ」
そう言って黒尾は、そっと伊吹を抱き締めた。緩やかなそれは、触れ合っているだけという方が近い。額が黒尾の肩口に押し付けられ、後頭部を大きな手の平が覆う。
「大丈夫だ」と繰り返した低い声に、伊吹の心に巣くっていた疑心が霧散していった。まるであのとき、過呼吸になった伊吹を安心させてくれたときのようだった。
「……次のオフまで時間ねえし、今から断るのは無理っす。でも、」
「うん」
「…その次のオフ、また…新宿でも何でもいいんで、黒尾さんと行きたい、です……」
「っ、!……もちろん、楽しみにしてるな」
新宿の息ができなくなるような人混みであっても、黒尾は体格が良いため隣にいれば呼吸がしやすかった。
今、心の閉塞感の中で呼吸もままらなかったものが、黒尾にこうして抱き締められて、息がしやすくなったような気がした。