積み重なる日常−2


直後、頭上から盛大な舌打ちが聞こえてきた。この男がそんな仕草をするのは珍しい。


「…え、そんなむかつきました?」

「伊吹のことウリ専呼ばわりしただろあいつら。人の恋人に売春疑うとか殺してぇな」


今度は本気の眼光だ。たまに見せるこうした姿は、だいたいが伊吹に関することでしか見られない。


「ごめんな、次は日比谷とかにしよっか、映画館。やっぱ新宿クソだわ」

「…まぁ、そうっすね。でも、俺は新宿嫌いじゃないっすよ」

「そお?」


信号にたどり着き、群衆の中で赤信号を見つめる。ちょうどよいタイミングだったのか、すぐに信号は切り替わった。
歩きだす人々の中で、伊吹は付け足す。


「黒尾さんと初めて来た東京の街なんで。黒尾さんとの思い出がある限り、ここを嫌いになることはねっすよ。ま、映画館を日比谷にするのは賛成っすけど」

「ふ、そっか。じゃあ死ぬまで新宿のこと嫌いにならないね」

「今んとこその予定っすよ」


ニッとして見上げてやれば、黒尾はさすがに照れたのか視線を逸らす。すぐに切り替わろうとするせっかちな信号の点滅に照らされた横顔には赤みがさしていた。まだ赤信号にはなっていない、それ以上は説明するまでもないだろう。


そうして歩くうちに、群衆によって二人の普段の歩く速さではありえないほど時間はかかったものの、新宿駅に到着する。
駅の改札で、今日は実家と伊吹の家、どちらに帰るのか聞こうとしたが、それより先に駅員が慌ただしくアナウンスしている声が聞こえてくる。
どうやら黒尾が使っている私鉄が人身事故で運転を見合わせているらしい。そのあおりで中央線に人が集中し、改札は普段より混みあっている。


「うーわ、これ最悪だねぇ」

「仕方ねっすよ。俺ん家来ます?まだ電車動いてるんで」

「そだね、お邪魔するわ」


もう慣れたもので、二人とも特に気負いなく、伊吹の家を選ぶ。
改札を抜けて中央線のホームに入ると、すでに長蛇の列ができていた。それも一つの扉につき4列だ。どうせ乗り切れないため、端の列に並んでとりあえず一本見送る。

大量の人を吐き出してから飲み込んだ車両が過ぎてから、すぐに次の電車がやってくる。見送った二人が最前列に並びなおした直後から列が伸びていき、すでに先ほどと同じ長さになっている。相変わらず、どこにこんな人がいるというのだろう、東京という街は。

扉が開いて、緩慢に下りる人々が捌けてから中に入る。すでに中には下りなかった乗客たちが中ほどの席側の立ち位置をキープしており、ほかの扉から入ってきた乗客たちと車内中央部で落ち合う。どんどん人が乗り込んできて、もう乗れないだろうと3回くらい思ったところでようやく扉が閉まる。

そのころにはすでに、伊吹の体は黒尾に抱き締められ、それでもなお、周囲の乗客とゼロ距離になっていた。

重そうな様子で走り始めた電車の中、伊吹は完全に黒尾に体重を預けるようにして立っており、その鎖骨あたりに顔を置く。

それに黒尾がふっと耳元で小さく笑ったため、伊吹は憮然として返す。


「ふかこーりょく、です」

「そっか」


小声の会話は大したものではない。たとえ距離が近くとも、乗客たちは互いに関心などなかった。

どうせ不可抗力ついでだ、伊吹は乗客たちによって肩から下が誰にも見えないのをいいことに、黒尾の背中に腕をまわしてしっかり抱き着く。黒尾も応じるように、伊吹の背中に腕をずらして、その長い腕に伊吹を閉じ込める。おかげでほかの乗客との接着状態ではなくなった。

包まれ守られているかのような感覚はくすぐったいが、こういうのも悪くない気がした。

辟易とするような東京の満員電車でも、きっと伊吹は嫌いにならないのだろう。この黒尾の体温が何気ない思い出となり、しょうもない、それでも大切なものとして積み重なっていく。



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