変わらないもの−4
「俺の人生の目的はバレーだ。どこまで行っても、俺はコートが居場所で、ボールを追いかけるだろう。だが、それ以外の人間的なものはすべて、伊吹だけだ。伊吹だけに、俺のバレー以外のすべてが向いている」
そう言いながら、若利の手が伊吹の手に触れる。まったく大きさが違う武骨な手に包まれて、安心するその温もりがじんわりと伝わる。
「大人になってできることが増えて、自由に使える時間も増えて、自分で自分に責任を持てるようになった。それなのに、バレーをしていない時間、バレーのために必要ではない時間に、俺は何をすればいいのか分からない。そんなときに、どうしてかいつも、伊吹の面影を探してしまった。同じ国にいれば、せめてEUにいれば、と、無意味な仮定が頭をめぐってしまう」
それは伊吹も同じだった。もともと「自分」というものへの意識が希薄だった伊吹は、昔から趣味らしい趣味もなく、部活もなくなった大学生以降、なんでもない時間を過ごすのが苦手だった。
昔はそういうときに若利と会えることもあったが、今は不可能だ。チャットを頻繁にする間柄ではなく、電話なんてしたこともないのに、距離を埋める手段を探してしまった。そうでなければ、今頃ポーランドの地名や移住の規則にやたら詳しくなってはいない。
「生きる目的はバレーで完結するだろう。けれど、生きるために必要なものはバレーだけではないんだ。そしてそれが、伊吹なんだと、そう確信している。いや、きっと、ずっとそうだった」
視界が滲む。まだ明るいパリの街並みは鮮明に見えるはずなのに、急に見えづらくなっていく。
若利は一度、伊吹の目元を優しく拭ってから、顔を近づける。
「俺と、これから先もずっと、一緒に生きてほしい」
「っ、おれも、若利と、一緒がいい…っ、一緒に生きていたい…!」
「そうか」
いつもの短い相槌。しかしそれは今だけは、少し震えてたくさんの感情が滲んだものだった。
若利はリングを伊吹の左手の薬指につける。
伊吹も、箱からもう一つのリングを手に取って、若利の太い指にはめていく。
二人の同じ指に揃って輝くシルバーに、またこみあげてくるものがあったが、伊吹はしっかりと若利の目を見つめた。
「ありがとな、若利。俺も同じだ。目的や夢がなくても生きていける、でも、俺も生きるために若利が隣にいてくれたらって思う」
指輪の嵌まる左手で、若利の左手を握る。バレー選手だった若利の父親が、直すべき短所ではなく守るべきギフトだと言って、若利の左利きを矯正させなかったからこそ今があるのだと、若利は嬉しそうに話していた。伊吹と同じように、両親とは仲が良くても、それでも一緒に家族でいることはできなかったからこそ、父親とのつながりを示すようで大事だったのだろう。
その左手に、将来を約束する指輪を揃えてつけてくれている。
「バレー選手として若利を、俺が支える必要はないと思う。俺も、誰かの助けがないと生きていけないってわけじゃない。そもそも、俺たち二人とも、コミュニケーション能力には難ありだし、人付き合いって意味では足りないものの方が多い」
伊吹の言葉に、若利と二人で小さく笑う。高校時代のチームメイトたちと比べれば、二人のコミュニケーションスキルはかなり低かった。それは今も本質的には変わっていない。
若利は相変わらず天然な朴念仁っぽくテレビでもチームでも扱われていて、伊吹は会社の同僚と業務上の会話しかしない。
そんな欠けている二人が、お互いを補い合えるわけではないのだろう。
「それでも俺は、隣を歩きたい。たとえ284段の階段でも一緒なら上りたいし、特別な景色を二人で見て共有していきたい。今日一日パリを歩いて改めて思った。一緒に過ごす一瞬を、ただ、積み重ねていきたいんだ」
この街が、歴史軸という形でその過ごしてきた時を記憶しているように、伊吹も、若利との時間を積み重ねていきたいのだ。それは劇的なものではないだろうし、ロマンチックでもないのかもしれないし、お互いに依存しあうような強いものでもないだろう。
けれど、二人にはそれでよかった。
「…確かに、指輪があっても、法律上の有効性があるわけじゃないけど。きっと俺たちは、この形で十分なんだ。他人に証明してもらう必要なんてない、俺たちがお互いに、この指輪を通してつながりを証明し合うだけで、離れていても同じ方向を見て歩いて行けるって、俺もそう思うから」
感情の機微が強くない若利も、口元を引き結んでいる。その表情を緩めるように、伊吹は若利の頬を右手でそっと撫でた。
「だからありがとう、ここで、指輪を渡してくれて。愛してる。これからもずっと」
「っ、俺もだ、伊吹…っ!」
テーブルが大きくなくてよかった。二人はそっと顔を近づけて、額を軽く突き合わせてから、ほんの一瞬、触れるだけのキスをした。
そういった感情表現をあまりしない二人だからこそ、これだけで、お互いの感情の奔流を理解できる。
体を離して椅子に座りなおすと、バチ、と目が合う。儀式めいたことをしたからか、普段になく感情を表に出したからか、二人そろってさすがに少し気恥ずかしくなる。
お互いにそう感じているということすらも手に取るように分かったため、揃って照れ隠しの笑みが漏れてしまった。
そういう不器用さは昔から二人とも変わらないし、これからも、恐らく変わらなさそうだ。