変わらないもの−3
そんなことを考えていると、凱旋門に到着する。巨大なラウンドアバウトが凱旋門を囲んでおり、凱旋門にはパラリンピックのロゴが飾られている。
照りつける夏の日差しの下では見上げるのも大変だが、やはり間近で見ると圧巻だ。
すると、若利は勢いよくこちらを見下ろした。
「写真で見た通りだな」
「え、あぁ、うん、そうだな」
「登れると聞いた。登ろう」
心なしか声が弾んでいる。表情にも期待が滲んでいた。
そういえば、若利は何事にも動じない落ち着いた性格ではあるが、ちゃんと人並に、有名なものにはワクワクとした様子を見せる。多くの場合は有名なバレー選手へのそれだったが、初めて東京の大会に出たときにも東京の街並みをわざわざ写真に撮って伊吹に送ってくれたものだ。
「…じゃあ、上ってみるか。地下道から行くらしい」
いろいろと変わった部分もある。しかし、当然ながら変わらないものもある。今でこそ衆目を気にせず抱き着いてくることこそなくなったが、二人きりになると、肩を抱いたり腰を抱き寄せたりと身体的接触が増えるのもそうだ。
テレビで姿を見すぎたからか、東京からパリまでの15時間のフライトがあまりに遠かったからか、勝手に距離を感じていたのが馬鹿らしくなってくる。
二人は地下通路から凱旋門の地下エントランスに向かい、チケットを購入して地上へ上がる。
そこはもう凱旋門の真下であり、セキュリティを抜けて階段が姿を現した。
「え、284段?」
「そうか、すべて階段なのか。良い運動になる、今日は取材であまり体を動かせていなかった」
「い、いやいや、俺はもうただの社会人であってこんな…」
一応周りを見渡すが、エレベーターは障碍者と高齢者だけとなっており、この階段を避けることはできないらしい。
まったく覚悟していなかった284段もの階段を前にため息をつく。若利はこの階段すらワクワクとした目で見ており、付き合うしかないか、と伊吹は受け入れる。
そうして、ひたすら狭い螺旋階段を上がり続ける。たまに休む人のせいで進みは遅く、若利は少し物足りなさそうにしていた。もっと負荷をかけたいのだろう。こちらとしては、もっとたくさんの人に途中休憩してほしいくらいだ。
途中、休憩所のようなものがあったが、それは200段以上上ったところにあったため、今さらだということで、二人はそのまま展望階まで進んだ。
ようやく屋上にあたる展望階に到着すると、夏の日差しに涼やかな風が吹きつけた。乾燥したパリの夏は東京よりずっと過ごしやすい。
放射状に凱旋門から広がる通りに沿って広がる都市は、屋根の高さが均一に揃えられ、遠くまで見渡すことができた。
まず目に飛び込んでくるのはエッフェル塔で、遠くモンマルトルのサクレクール寺院やセーヌ川もよく見える。
少しずつ伊吹が呼吸を整えていく一方で、まったく息が切れていない若利はエッフェル塔をスマホの写真に収めていた。後で見返すためではなく、SNSを更新するためだという。これは意外にも影山のアドバイスであるそうで、なんでも「バレーの入り口は多ければ多いほどいい」ということだ。それは確かにそうだと思う。
「これがシャンゼリゼ通りだな」
「あー…そうだな、反対側にラ・デファンスが見えるからそうだと思う。小さいけど、カルーゼル凱旋門とルーヴルも見える」
「反対側?」
伊吹の言葉に若利が首をかしげる。シャンゼリゼ通りの反対側を指さすと、セーヌ川の対岸にラ・デファンス地区の高層ビル群が遠く見えている。そこには、高層建築のグラン・ダルジュという第三の凱旋門がそびえていた。
カルーゼル凱旋門、このシャルルドゴール凱旋門、そしてグラン・ダルジュ、3つの門が一つの大きな道で繋がれているのだ。
「パリの古い王宮があったカルーゼル凱旋門から、マリー=アントワネットが処刑されたコンコルド広場、シャンゼリゼ通り、凱旋門、そんで近代的なビルが並ぶラ・デファンスが一本の道の上にあるんだよ。別名、パリの歴史軸。パリの昔から今、未来を表すらしい」
「なるほど…さすが、伊吹はなんでも知っているな」
「別になんでもってことはねぇけど…街自体がそういうことを大事にしてるのっていいなって思って覚えてたんだ。積み重なった歴史の上に生きようとしてる姿勢、みたいなのが」
「伊吹らしいな」
ふ、と穏やかにほほ笑んでこちらを見下ろす若利にドキリとする。色恋沙汰に詳しくはない伊吹でもわかる、心から愛しいと思っている表情と目線だ。若利はそうした気持ちを伝えようと思ってこういう様子を見せているのではない。単に、その強い感情が漏れ出ているだけなのだ。本人は無自覚のそれに、伊吹はめっぽう弱かった。
***
しばらく市内の観光などをしてから、若利の方から「そろそろ夕食にしよう、予約した場所がある」と言ってくれたため、モンパルナス方面に向かった。
パリに来て数日経つが、それでもこの空の明るさには慣れない。現在時刻は18時を過ぎているが、日本の15時くらいの空だ。ずっと昼間のようであるため、もう夕食時とは信じられない。
モンパルナス駅に地下鉄で移動すると、トゥール・モンパルナスという超高層ビルに入る。まさか予約しているレストランとはここにあるのだろうか。
エレベーターに乗って高層階のボタンを押した若利に伊吹は焦る。ドレスコードなどは大丈夫だろうか。ラフな格好ではないが、好ましくないかもしれない。
「眺望の良いところを予約した。半個室になっている。超高級、というものではないから、ドレスコードはそこまで気にしなくていい」
「俺が今日、半そで短パンで来たらどうするつもりだったんだよ」
「普段そんな恰好をしないだろう?仮にそうだったら、それっぽい服を買って贈るだけだ」
やはりこういうところはきちんと大人になったな、と本来年下であるはずの伊吹が思ってしまった。そういえば、そもそも若利は地元の名家だった。育ちはいい。
レストランに入ると、スタッフに案内されて窓側の席に通される。パーティションで区切られた半個室で、窓からはエッフェル塔を含むパリの街並みが見渡せた。まだ夕方手前くらいの空であり、夜景が見えるわけではないが、パリは夜景より昼間の景色の方が美しい。
「すげ、めちゃくちゃよく見える。ルーヴルもそうだし、アンヴァリッドとかモンマルトルもくっきりだな」
「夜景を待つには22時くらいに来なければならないようだった」
「明るい方がいいって」
予約していたのは席だけでなくコースもだったらしく、注文するのはワインとメインの選択肢だけで、あとはスタッフが勝手に運んできてくれる。
さすがに味もよく、ワインはもちろん美味しい。若利も今日は少し飲むようで、グラス1杯だけではあるが、白ワインを飲んでいた。
ポーランドでの生活や選手村の様子など、また普段通りの会話が続く。日本語ができる者などいない場であるため、半個室でしかなくても気にならない。
そうしてコースを進め、デザートまで済ませたころには、ようやく空も夕方になろうとしていた。時刻はしっかり夜のはずだが、空は夕暮れだ。
食後のコーヒーが出てきたところで、若利が沈黙する。幼馴染である二人の間に沈黙が落ちることはまったく珍しいことではないが、リラックスしたものではなく、なぜか緊張感がある。何かを言う直前のようだった。
「……伊吹」
「ん?」
そうして口を開いた若利の声は少し硬い。いつも何事もはっきり言葉にする若利にしては珍しく、言葉を探しているようだった。
続きを待っていると、突然、若利はポケットから小さな箱を取り出した。さすがの伊吹も息が止まる。ドラマなどでよく見る、しかし日常ではまず目にしない、貴金属を収納する小さな箱だ。
「わ、かとし…」
「…、俺たちは、頻繁に会うことも、一緒に暮らすことも難しい。俺たちの繋がりは、欧州と日本の距離を前にすると、やはり薄氷のものだと思う」
「それは…、」
若利が言葉にしたことは、二人が意図的に口にしなかったことだった。いわゆる遠距離恋愛だが、さすがにポーランドと日本は遠すぎるし、男子バレー日本代表のキャプテンとなるほどのプロアスリートと一般人という立場の隔たりも大きい。
何より、若利はバレーがすべてであり、それが最優先で、伊吹はそんな若利を好きになった。二人にとっての優先順位の一番が若利の選手人生である以上、二人とも心から同意していることであっても、その関係は薄くならざるを得ない。
「結局のところ、日本では同性婚は不可能だ。こんなことに法的拘束力はないし、結局、情緒的なものに過ぎないのかもしれない。けれど、俺はそれでも、この形が必要だと…いや、この形にしたいと、そう思った」
若利の、強烈なスパイクを放つ大きな手が、小さく繊細な箱をそっと開ける。中から出てきたのはシンプルなリングで、実直でどこまでもまっすぐな若利らしいものだった。
自然と呼吸が浅くなっていて、一度静かに深呼吸する。若利が言葉を紡ぐリズムを邪魔したくなかった。若利の言葉を、余さずすべて聞きたかった。