Liberté−11
靴を履いて、サンソンに続いてホテルを出て、近くのパティスリーに入る。日曜の朝からやっている店などチェーンくらいだが、こうして個人でも開けているのは珍しい。
パンを適当に買って、コーヒーを注文してからテーブルに向かい合うように座る。すぐにコーヒーが運ばれてきて、唯斗とサンソンは揃ってパンを食べ始めた。
日曜の朝らしく、静謐な空間に落ち着いた会話の声、コーヒーを入れる音などだけが響く。
「…唯斗はコーヒーと紅茶どちらがお好きなんですか?」
「どっちも好きだな。でも、匂いはコーヒーが好き」
「コーヒーの香りは副交感神経を刺激して自律神経全体を整える効果があります。疲労が取れないときや気圧の低いときなどに良いですよ」
「おお…さすが医者」
くすくすと笑うサンソンはコーヒーを飲むのも様になっている。店そのものはポルトガル移民がやっているのだろう、ポルトガルの名物であるナタ(エッグタルト)もサンソンの買ったパンの中に混じっている。
ふと、店内に漂うコーヒーの香りを感じながら、うっすらやりたいと思っていたことを思い出す。そんなことは夢物語だと自分で一蹴してしまったものだ。
「……俺さ、コーヒーも紅茶も好きだけど、カフェって空間が好きでさ。昨日いたカフェにいつも土曜は通ってて、あるとき、俺もカフェとかやってみたいなって思ったことがある。自分で店構えるなんざ無理だろってすぐ考えんのやめたけどな」
「……いくらトリリンガルだからと言ってルクセンブルクの金融会社に勤めるのは並大抵のことじゃありません、むしろカフェを開く方が現実的では…?」
「一人でできることにも限りがあるだろ。もう使ってない日本の実家改装すりゃいいから箱はあるけど、改装だの手続きだのって一人でやんのはな」
「なるほど。それなら僕も一緒にやるので、二人で日本に移りませんか?」
「………は?」
唐突なサンソンの提案に、唯斗は自分でも鳩が豆鉄砲を食ったような顔をしているだろうと思った。確かに日本でカフェを開くのとルクセンブルクの金融機関に勤めるのとでは後者の方が圧倒的に難しいだろうし、人的な条件さえ満たせばカフェを持つことなど十分可能だろうが、それにしてもこんな他愛ない会話の流れで移住を提案するだろうか。
しかしサンソンがそういう冗談を言うとは思えず、事実、その視線は真剣だった。
「な、に言って…日本は全然英語すら通じないんだぞ、英語が通じるオランダともフランス語が通じるルクセンブルクとも違う」
「だからこそ本場のフランス人がいるというアドバンテージができるでしょう。フランスから直接仕入れることも可能です。日欧EPAで関税も撤廃されるわけですし、あまり非現実的ではないのでは?」
「……お前、ほんとに医者が嫌なんだな」
「とてつもなく嫌、というわけではないですよ。やりがいもあります。確かに、医者として僕が積んだ勉強量を人はもったいないと言うかもしれない。でも、それは僕が自由に生きる時間という素晴らしい財には代えられない」
「でも、」
「Une vie ne vaut rien, mais rien ne vaut une vie.(ひとつの人生などなんでもない。だが、人生に値するものも何もない)」
「っ、!」
フランスの有名な政治家であり文学者でもあった、アンドレ・マルローの言葉だ。言葉を詰まらせた唯斗の手を、テーブルの上でサンソンはそっと握る。
「パリから逃げてきた僕は、ずっと逃げてばかりでした。でもあなたに出会って、本当に僕が望んでいたことが分かった。嫌なことを背後に見ながら逃げるのではない、やりたいことを前に見ながら走りたい。足を運ぶ行為は同じでしょう、でも、きっとゴールは違います。きっかけが欲しかっただけなのかもしれない…けれど、他ならぬ唯斗、あなたと、一緒に前へ走りたいと思いました」
後ろを振り返りながら逃げるために走るのと、前を見てやりたいことのために走るのとでは、行為そのものが同じでもまったく意味は違うのだ。
そう語るサンソンは、まだ出会って二日目でしかない唯斗を、並走相手に選んでくれるらしい。
「…っ、ずりぃだろ、そんなん…」
「落とすと決めたら全力ですよ。フランス人ですから…よくご存知でしょう」
「…うん、思い知ったよ」
唯斗は苦笑して、サンソンに握られる手の指の腹で、サンソンの手の甲をそっと撫でた。
「もう少し話そう、サンソン。しばらくここにいるんだろ。日本に移住するなら、考えるべきことは腐るほどあるぞ」
「喜んで」
昨日、ホテルでもう少し話そうと踏み出してくれたのはサンソンだった。だから今朝は、唯斗から距離を詰めた。あまり素直になれない唯斗の、精一杯のイエスに、サンソンは綺麗に笑って頷いた。