Tempo Rubato−1
モデルディルムッド×ピアニスト主
万雷の拍手、口々に響かせられる「bravo!」の声援、立ち上がった観客たちに深く礼をして、その日の演奏をすべて終えた。サン・カルルシュ国立劇場の壮麗なオペラハウス建築のホールは満員で、アジア人である自分の演奏のためにこれだけの人が集まったことに、さすがの唯斗も感慨深いものがあった。
ポルトガル共和国、首都リスボンの歴史地区の中心部にあたるシアード地区に聳える国立劇場は、ポルトガルでも最も格式高い劇場であり、華麗な内装が施された一流の劇場だった。
そこでたった一人、ソロのピアノコンサートを開いた唯斗は、世界的に知られる若き天才ピアニストと称されていた。
日本生まれフランス育ち、英語を含む3つの言語を喋るピアニストとして、海外での仕事の方が多い日々を送っている。もはや自分がどこの国に定住しているのか分からなくなるほどだが、一応国籍は日本にあった。
海外で活躍する日本人が異常なほど持て囃される日本では、その実こうしたコンサートはあまり多くない。所詮、クラシック音楽への関心などそんなものだ。
楽屋に戻ると、そこもやはり控えめながらしっかりと装飾がされた白を基調とした部屋となっている。ホールのざわめきはさすがに聞こえてこないが、一通り挨拶を済ませてほとんどの客が帰った後だからということもある。
演奏を終えてから楽屋に戻れたのは実に1時間後のことで、それだけ多くの人々と挨拶をさせられた。それも大事なことだと自分に言い聞かせて必死に笑顔を作ったが、唯斗はあまり表情を動かすのが得意ではなく、むしろ日本でも世界でも寡黙で謎多き人物像として語られる。何も考えていないだけだ。
だからだろうか、笑顔で応対すると、「普段はクールだが笑うとかわいいね」という類のことを言われてしまい、フランス人とのクォーターとはいえ日本人の血が濃いアジア系であることもあって童顔に見られてしまい、セクハラまがいの言動をされることもあった。先ほども人の目が離れた瞬間に腰を撫でて夜の誘いを受けてしまったところだ。
初老の男性のそんな誘いに乗るはずもなく、夜は友人と約束があると嘘をついて出てきたところだ。
ようやく楽屋で一人になって、マネージャーにあたる業務をやっているエージェントに後のことを託したことで、やっとため息をつけた。
ただピアノが弾ければそれでよかったはずなのに、こんなことがしたいわけではないはずなのに。そう思う反面、やはりホールの中心で演奏するピアノはどこまでも唯斗をその先へと誘うのだ。
すると、扉がおもむろにノックされた。返事をすると、「スタッフです、退去時間についてお話が」と返ってくる。
唯斗はため息を飲み込んで立ち上がり、扉を開ける。その途端、目の前に男性の首元が現れる。180センチを超えた背の高い男が立っていて、驚いて見上げた。
さらにその顔を見て、唯斗はしばらく見覚えがあったため見つめてしまい、ついに合点がいく。
「…あなたは、」
「不躾に申し訳ありません。ディルムッド・オディナと申します」
「……あのディルムッド・オディナか?本物?」
「ええ、そのディルムッドでお間違いありません。麗しきピアニスト殿。よければお邪魔しても?」
「え、ああ…どうぞ…?」
にっこりとほほ笑んだディルムッドの顔面の圧力に押されて、唯斗は中に通す。ディルムッドは礼を言って中に入ってくると、後ろ手に扉を閉める。
ディルムッドは米国の有名なモデルだ。ボストン生まれのアイルランド系移民の子孫で、その美貌は米国のみならず欧州でも名を知られていた。トップ男性モデルである。
唯斗が今年で25になるが、2つ年上の27歳だったはずだ。輝く笑顔は整い過ぎていて、思わず通してしまったが、冷静に考えれば部外者である。
ディルムッドは慣れたように楽屋中央にあるシッティングスペースに来てテーブルにつく。唯斗も話をするなら一応聞くか、と向かいの席に腰掛けた。