Tempo Rubato−2
「それにしても、ずいぶんと気安く通していただけるのですね。私が言うのもなんですが、不用心では?」
「ほんとにあんたが言うのかって感じだな…アポなしに来るとはどういう了見だ、スキャンダルの帝王さん」
「…その呼び名は、あなたもご存知でしたか……」
米国セレブ界でスキャンダルを起こしまくる男として知られるディルムッドは、そのイケメンさのあまり、何人もの女性有名人との報道がなされてきた。ほとんどは売名やただの友人など無実だったため、ディルムッドは茶化される意味でスキャンダルの帝王と呼ばれていた。
しかしそれが本物となってしまったのはつい最近のことで、ハリウッド女優と有名雑誌の専属モデル両方との交際、つまり二股が発覚して米国を騒がせていた。いつになく炎上し、これまでただの雑誌の騒ぎでしかなかったものがついに真実に至ってしまったと話題になっている。それは欧州にも聞こえていて、ディルムッドがどうやら完全に干されているらしかった。
もちろん釈明はあったが、次々とパパラッチが写真をメディアに売りさばき、火中の女優たちも交際を公言して裁判まで起こすと言っており、ディルムッドは窮地に立たされている。
「ここまで入ってきたのは顔パスだったんだろ。ポルトガルは良くも悪くも他国の情勢に無関心だからな、有名人が有名人に会いに行くだけ、ってところか」
「ええ、それを利用しました。それにしても、本当にあなたはクールだ。まったく動じていない」
「強盗とかじゃなさそうだしな。ま、さすがにこれからは警戒しようと思った」
「その方がよろしいでしょう。悪意ある人物が同じ手を使うとも限りません」
「…で?あんたの目的は。悪意がないなら善意か?」
「……下心、というのが正直なところです」
「正直に言ったら下心じゃないだろ…つか、それどういう…」
ディルムッドが言うには下心とのことだが、表に出してしまえばそれは下心とは言わないだろう。それにしても、これが唯斗とディルムッドとの初対面である。これまで会ったことなどない。わざわざユーラシア最西端の国まで来て唯斗の楽屋にアポなしで突撃するとは、いったい何が目的なのか。
「初めてあなたの演奏を聴いたときから、惹かれていました。日々パパラッチに辟易として、交友関係もうまくいかない中で、あなたの演奏が一種救いのようで。そして今回の事件があり、私は本当に何もかもやる気をなくしてしまって、誰も信じられなくなって…私に不利な情報を流した友人だったはずの誰かも、情報を売ったエージェントも、急に離れていったファンも、誰も…!」
突然話し始めたディルムッドは、楽屋中央のテーブルに肘をついて、手で顔を覆う。なんか始まった、と呆然としていた唯斗だったが、ディルムッドの様子は明らかに憔悴していた。
元から善良そうな人物に見えていたし、恐らくその性根はまっすぐで純朴だ。しかし米国のスター界で人間関係に摩耗し、今回の事件で疑心暗鬼になってしまったようだった。正直、そうなってしまう気持ちは分かる。
人とはかくも汚くなれるのか、ということは、しがないピアニストでしかない唯斗ですら感じていたのだ。真っ只中にいた彼ならより深刻だっただろう。
「…そんな中で、また、あなたの演奏を聴く機会がありました。ただひたすら音を追うような演奏、まっすぐで、しかしあまたの感情を追想する音の流れ。すべてが心にダイレクトに突き刺さった」
「……どうも」
正面からこんな詩的な褒められ方をされるとさすがに照れる。そうしようと思って演奏しているわけでもないからなおさらだ。演奏しているときの考えも感情も言語化できない。
言語化できないから、唯斗は音に託すのだ。
「今日のチケットを手に入れられたのは幸運でした。パパラッチから逃れて、親戚のいるアイルランドに身を寄せていたのですが、あなたの欧州でのツアーコンサートがあると知り、リスボンのチケットだけなんとか入手できたんです。そうして初めて生の演奏を聴くことができました。そして、今日の演目にあった『フィンランディア』に心打たれたのです」
シベリウス作曲の交響詩「フィンランディア」は、フィンランドにおける第二の国歌のような名曲であり、シベリウスの代表作だ。基本的にはオーケストラで演奏されるが、シベリウス自身が編曲したピアノ版も存在する。
デンマーク、スウェーデンと他国の支配下にあり続けたフィンランドは、ロシア帝国の支配下で最も過酷な時代を迎える。人々はそれでも奮起して戦い、ロシア、そしてその後のソ連を相手に孤独な戦争を続ける。第二次世界大戦では枢軸国としてみなされてしまい賠償金を負わされカレリア地峡を喪失するが、それでも人々は諦めずに復興し、現在の豊かな国家を築き上げた。
序盤の暗く重いフレーズはそうした他国の圧政とフィンランドの厳しい冬を表現し、中盤でそこから独立に向けて戦う様が明るい春の風が駆け抜けるような旋律で表現される。そして楽曲は一気に落ち着き、静かで美しい賛歌に差し掛かる。フィンランディア賛歌という独立した合唱曲にもなっているこのパートには歌詞があり、それは抑圧に負けず独立した祖国を称え、その独立を夜明けに例えるものだ。