Tempo Rubato−3


On aamus' alkanut, synnyinmaa(朝が来たのだ、わが祖国よ)。その歌詞に即した、清廉ながら強く生き抜く力強さを感じました。そんな演奏に、私は感動し…気が付いたらここまで来ていました」

「……え、勢い?」

「そうです。勢いでここまで来ました」

「…勢いでここまで来てその堂々とした態度って…なんつか、大物だな、ほんと」

「お褒めに預かり光栄です」


口調こそ丁寧だが、これは天然の領域である。

それにしても、テレビの向こうの届かぬ有名人であるディルムッドが、ここまで唯斗の演奏を褒めてくれるとは思わなかった。何より、そこまで苦しんでいたとは知らなかった。

もともと感受性の豊かな人物だったのだろう。だとすれば、芸能界の心が擦り切れる世界は苦しかったのではないだろうか。

唯斗は立ち上がると、ひどい隈ができている眦にそっと指を滑らせる。ディルムッドは驚いたように見上げていた。


「あの……?」

「…ちょっと、生き急ぎ過ぎたのかもしれないな、あんた」

「生き急ぐ…」

「音楽って、場面によってドイツ語、英語、フランス語、いろいろ混ざって使うんだけど、表現記号は基本的にイタリア語なんだ。その中に、Tempo Rubatoってのがある」

「テンポ・ルバート、ですか」

「そ。″自由な速さで″って意味」

「っ!」


目を見開いたディルムッドの綺麗な顔から手を離し、先ほどはあんなに苦労した笑顔が自然に浮かぶ。


「生きるテンポは自分で決めていいんだ」

「……はい」

「俺はあんたのこと、そんな知らないし、正直スキャンダルとかどうでもいいけど。もうちょい自由にテンポ決めてもいいんだろうな、とは思う。今が人生の夜なんだったら、朝にするのも自分の仕事だ」


冬から春、夜から朝、そして支配から独立をすべて一つの楽曲で表現したフィンランディア。自分の人生なら、春も朝も自立も、それはすべて自分でタイミングを決めるものなのだ。


「ピアノに指揮者はいない。指揮するのは自分だけだ。人生ってやつも一緒なんだろうな」

「…えぇ、きっと、その通りです」

「ま、自由すぎるサティみたいなド変態も御免だけどな。いずれにせよ、ここまで来たらもうちょい休んで好きにするのもありなんじゃないか」


唯斗は時計を見て、そろそろ着替えてホテルに戻る頃合いだと背を向けて荷物に向かう。着ていた燕尾服のジャケットを脱ごうとすると、おもむろに肩に手が添えられてジャケットを脱ぐのを手伝われた。
ディルムッドが服屋のように恭しくジャケットを脱がせたのだ。
そして、そのままシャツ姿の唯斗を後ろから抱き締めてきた。逞しい体に背後から包まれる。


「う、わ、なにして、」

「好きに生きる、それなら、まずは食事をご一緒させてはいただけませんか」


このホールに客として来ていた以上、ディルムッドのスーツも上等だ。オートクチュールであろうそれは楽屋の安っぽい照明の下ですら洗練された光沢を放つ。
そのスーツを見るだけで、たとえプロピアニストであろうと住む世界が違うはずだった。


「…とんだ酔狂だな」

「お嫌いですか?」

「いや……経験は表現に直結する。悪くない提案だな、『舞踏への勧誘』みたいな経験は興味があったんだ。期待してる」


15センチ近くあるだろう身長差から、後ろを振り返るというより後ろを見上げる形になり、後頭部がディルムッドの鎖骨に乗る。至近距離で目が合い、泣き黒子が特徴的な目が柔らかく蕩ける。


「忘れられないひとときをお約束しましょう」


これくらいのアクセントが人生にあってもいいだろう、そんな気持ちでディルムッドの誘いに乗った唯斗だったが、まさか気が付けば色男の手管に丸め込まれ絆された挙げ句、ディルムッドがメディアに唯斗への愛慕を赤裸々に告白して世間を騒然とさせ、吹っ切れた新しい姿で芸能界に復活しようとは思わなかったし、そうやって外堀を埋めてきた男がそういえば勢いで楽屋に押し掛けるようなヤツだったと思い出す頃には、2人の薬指には同じ指輪が光っていたのだった。



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