後悔先に立たず−11
ロシアでの一件の翌日、なんとか帰還できた唯斗だったが、どうしても寝付けず適当な廊下にやってきた。
旧カルデアより窓がない施設だが、一部は彷徨海の外の海を眺めることができる窓のある廊下になっている。といっても、外の景色は荒れ狂う嵐の海であり、昼夜はおろか天候が変わることもない。
そんな荒涼とした風景が意外と嫌いではない唯斗は、廊下の窓辺で腰を下ろし、窓に寄りかかって荒海を眺めていた。
「マスターちゃん、おひとり?」
そこに突然、そんな声がかけられた。まったく気配がしなかったのは、気配遮断というより単に霊体化を解いただけだろう。
少し肩を揺らして見上げると、斎藤はいつものヘラヘラとした笑顔で近くにやってくる。
「ごめんごめん、驚かせちゃった?」
「大丈夫。どうかしたか?」
「そりゃこっちのセリフだよ。どうしたのこんな時間に、寝られない?」
確かに、もう夜もだいぶ遅い時間だ、消灯済みの館内は誰もおらず沈黙が落ちている。斎藤は笑ってこそいるが、おかしな様子はないかと唯斗を隅々まで見分しているのが視線で分かった。
「…別に、不調とかじゃない」
「さすがにあからさま過ぎたかな」
視線に気づいたと察した斎藤は、苦笑して唯斗の右隣に腰を下ろす。右隣といっても、窓に凭れている唯斗からは正面の位置に見えている。
その横顔は、飄々とした笑顔から一転、心配げなものに変わった。
「不調じゃない、ってのは、半分嘘だな?」
「…不調の定義による」
「僕、こう見えてそんな気ィ長くないんだよね」
とっとと吐けという言外の圧に、唯斗はあきらめて正直に話すことにした。いまだにこういうところで素直に口を割るのは慣れない。
「……活性アンプル使うと、後遺症じゃないけど、強制的に励起した魔術回路がしばらく活発になるんだ。自分でも沈静化しづらくて…それで目が覚めてる。痛みとかはない、なんだろう、エナジードリンク飲んだときみたいな」
「あんな体に悪いエナジードリンクあってたまるか」
斎藤はそう言って一つため息をつくと、おもむろにこちらに体を寄せた。いきなり精悍な顔が迫りびくりとしたが、斎藤は唯斗の腰に手を回すと、強引に自分の方へと引き寄せた。
その力の強さによって、窓に凭れる姿勢から強制的に斎藤に凭れかかる形になり、斎藤とまっすぐ横並びに座る体勢になった。
「…一さん?」
「風邪引いちゃうよ、そんな冷たいとこじゃなくて僕にでも寄りかかってな」
背中から腰に回された腕に引き寄せられ、斎藤の肩に頭を乗せる。体の右側に触れる体温はさほど高くなく、厚手のコートのおかげでほぼそれも感じない。ごわごわとしていることもあって、少しクレームを入れておくことにした。
「コート邪魔……」
「はいはい」
特に気にするでもなく、斎藤は軽く言ってコートの霊衣を消失させる。スーツ姿になったため、ジャケット越しであればいくらか温もりを感じられた。
しばらく沈黙が落ちる。荒れ狂う海に背を向けているため、目の前にあるのは非常灯のわずかな明かりだけが照らす暗い廊下だけだ。
すると、斎藤はその沈黙を引き継ぐように静かに口を開いた。
「なぁマスター。逃げたいとか、思わねぇのか」
「…?」
何を聞くのかと、斎藤の肩から頭を上げてすぐ近くの精悍な顔を見上げると、斎藤はちらりと至近距離でこちらを見遣る。
逃げたい、というのは、この異聞帯をめぐる旅から逃れたい、という意味だろうか。
「…どこに逃げるんだよ。彷徨海の外は延々と白紙化した地表が広がってるだけだぞ」
「そりゃ分かってるさ。だがもしも…もしもお前さんがもう無理だと言うのなら、俺はどこへでも連れて行ってやる」
最初、何を言っているのか理解できずぽかんとしたが、遅れてどういう意味合いか理解し、目を見開く。
カルデアを脱出して、世界のこともすべて放り出して逃げてしまおう、なんて、考えたこともなかった。何より、そんなことを英霊に言われたこともなかった。
「…そっか、一さんは、そういう優しさで俺のこと、考えてくれてんだな」
「ほかのサーヴァントはこういう優しさじゃなかった?」
「あぁ。一緒に戦って、守って、導いてくれる。英雄だからな。一さんみたいな現代の英霊は少ないってのもある」
「…それで、逃げたくないのか?」
どうやら斎藤ははっきりさせたいらしい。意思を試す、というような意図でもなく、本当に、逃げたいほどつらくないのか確かめてくれているのだ。
唯斗は、そこまで斎藤が唯斗のことを思ってくれているのだという事実に、途方もなく、安心した。逃げていい、なんて言ってくれた人は誰もいなかった。そう言わないこともまた優しさだからだ。
「……今は逃げる方が怖いから。でも、逃がしてくれる人がいるってだけで、もう少し頑張れる」
「あんな活性剤まで使う羽目になっても?」
「そりゃ、あれ使うのも、怪我すんのも嫌だけど…」
唯斗はそこまで言ってから、再び斎藤に抱き着くようにして凭れ、その肩口に顔を埋める。
「…一さんみたいな人がいたんだ、って歴史が残らない方が、嫌だ。受け取ったバトンを俺で落としたくない。次に繋げたい。それを、諦めたくない」
斎藤は一瞬黙ってから、応じるように唯斗を抱きしめた。そして、長い溜息を頭上で吐く。
「はぁ〜…未来の日本の子にそんなん言われたら、俺の剣、やっぱり未来への道を切り拓くために預けるほかないか。ま、いつでも言いな、逃げたくなったらいつでも逃がしてやるからよ」
「ん、ありがとう」
わしわしと頭を撫でられて目を閉じると、だんだん睡魔が首をもたげる。それを察知した斎藤はすかさず撫でる手つきを優しいものにした。
「寝られそう?」
「…たぶん……」
「じゃあ寝ちまいな、運んでやるからさ」
こくりと頷いて目を閉じる。ここにいれば安心だという実感は、様々な英霊が様々な形で与えてくれてきたが、心そのものまで安堵できる場所は、おそらくここだけなのだろう。
それが、斎藤の言う「守る」ということなのだ。
意識が眠りに落ちていく中、唯斗はやはり、こんな優しい剣士がいたのだという事実がこの地表からなくなってしまうのは嫌だと、それを避けるためならまだ戦えると、そう思えた。