サヘルの夜明け−1
傭兵リチャード×外交官主
登場する地名や民族名は架空のものですが、マリやブルキナファソをモデルにしています。
2024年1月6日
ピナルエサヘル共和国・ラヴァルヴィル市
大きな音を立てて冷風を吐き出すエアコンによって、室内は空調が効きすぎて寒いほどだったが、屋外の気温は30度ほどであり、これでも1年で最も涼しい時期である。
日本国外務省の二等書記官、いわゆる外交官である雨宮唯斗は、ピナルエサヘル共和国の日本大使館の廊下を歩きながら、刻一刻と悪化する状況への緊張を押し殺すように深く息を吸った。
そのまま大使の部屋にやってくると、扉を軽くノックしてすぐに入室する。勝手知ったる間柄ということもあるが、今は緊急でもある。
「失礼します。橋本さん、よろしいですか」
「うん、どうぞ」
駐ピナルエサヘル日本大使、橋本は、大使用の大きなデスクでテレビを見ていた。テレビは地元の国営放送のニュースが流れており、南西部の状況を知らせていた。
放送はフランス語、当然ながら、橋本も唯斗もフランス語を解する。この国の公用語はフランス語だった。
橋本は日に焼けた温和な顔立ちで、年齢は52歳、外交官として多くのキャリアを積んだ極めて優秀な人物である。温厚な性格であるものの、アフリカ駐在歴が長く、強かな側面も併せ持つ。
「状況の悪化に伴い、大使館および公邸の備蓄を確認しました。我々のみであれば十分ですが、スーダン退避なみの状況を想定する場合、1週間分の備蓄が必要です」
「では、大使館の日本人6名と現地人職員常時6名と仮定して合計12名の1週間分を、新たに確保してくれ。あとはガソリンだな。これは用意できるだけあった方がいい、車用と非常発電機用だ」
「承知いたしました」
即座に答えてくれたため、唯斗はすぐに部屋を後にする。さすが歴戦の外交官といったところか。
確かな指示のおかげで、ざわつく心は若干収まる。唯斗の年齢は28歳、赴任地としてはこれが3か国目となる若手の外交官にとっては、この状況はかなりきついものがある。
ため息を堪え、唯斗は隣の外交官専用の物置に入って現金を金庫から取り出し、建物の1階、この国では地上階と呼ぶフロアに降りる。
今いたのが日本でいえば2階、この国で1階にあたるフロアだ。
この大使館の地上階は領事業務フロアとなっており、来訪者の小さなロビー、領事業務室、管理室などがある。
在留邦人は、このフロアの領事業務室と面するカウンター窓口で様々な申請を行うようになっている。一般的な病院や役所のカウンターのような構造だが、窓口は2つのみである。
唯斗はそのカウンター越しに室内に声をかける。
「備蓄の買い出しに行くから、何かあったら倉石さんか橋本さんに頼む」
すると、すぐ近くにいた黒人の女性がすぐに応じる。
「分かりました。ご一緒しましょうか?」
「いや、荷物が多いから大丈夫だ、インナ。ありがとう」
応じてくれた女性はインナ・ディアロ(Inna Diallo)、この国の最大民族であるプラ人であるが、宗教は少数派であるキリスト教徒だ。この国では、概してホワイトカラー職業はキリスト教徒に占められている。26歳と若いが、在留邦人の手続きなどの実務では主担当となってくれていた。
唯斗は今度は管理室をノックして開き、中にいた男性に声をかけた。
「ウマル、車出してもらっていいか。大使館の備蓄を用意する」
「はい、ただいま」
男の名はウマル・バー(Oumar Ba)、唯斗と同い年の28歳であるものの、やはりこちらの人は日本人よりずっと年上に見えてしまう。
ウマルはインナと同じく最大民族のプラ人だが、こちらはムスリムだ。ウマルはこの大使館の専属運転手であり、ムスリム男性の大半は、こうした単純労働に従事している。
ウマルに連れられ大使館を出ると、指すような日差しにからっとした空気が喉と肌を焼く。日焼け止めは1年中手放せない。
黒塗りの公用車に乗り込む前に、車内の暑さをどうにかするべく扉を何度か開け閉めして車内の空気を入れ替える。その隙にウマルはエンジンをかけており、唯斗は遅ればせながら乗り込み、やはり暑い車内に辟易とする。
この国を脱出する、13日前のことだった。