サヘルの夜明け−88
2024年3月15日
東京都・千代田区
ピナルエサヘル共和国を脱出してから2か月、ようやく日差しに春の訪れを感じ始めたころ、唯斗は丸6年間の外務省での勤務を終え、最後の退勤をした。
残っていた有給休暇の消化をするため、今日は午前で仕事を終え、今日の午後から唯斗は晴れて民間人となる。
まだ太陽が高い位置にある昼間、昼休憩に出ていた職員たちも戻り、霞ヶ関は午後一番の業務時間が始まり静けさを取り戻している。平日の昼間、この辺りはほとんど人がいない。
唯斗が退職することになったとき、上司を含め職員たちは全員が残念がった。直接会ってはいないが、外務大臣も残念だと言っていたという。
たった一人で邦人の緊急退避を指揮した、ということで唯斗の評価は極めて高く、外務省内部では瞬く間に唯斗の名前が知れ渡っていた。その経験は何ものにも代えがたく、これからのキャリアにも期待されていたのである。
悲惨な経験をしたからかと、メンタルケアによって解決することを企てていた上司たちに、唯斗は「今回のことでやりたいことができた」と述べて退職届を提出した次第だ。
保護した現地人たちは、政府が用意した宿泊施設で過ごしており、すでにインナはベナンに出国したそうだ。
そしてピナルエサヘル共和国については、先月、首都が陥落してARSN率いるクーデター軍が政府を掌握した。新政府はDASAKとの戦闘を継続しており、正式に、かの国は内戦状態に陥っている。だが、フランス人たちを含むすべての退避希望の外国人は脱出できており、東部は今も平穏だった。
まだコートは必要ながら、寒さが和らいで過ごしやすい昼下がり、エントランスを出て国道1号に出る。8車線の大通りを挟んで向かいには、農林水産省などが入る中央合同庁舎1号館がある。
通用口から門を抜けて広い歩道に出ると、大通りを吹き抜ける風がまだ冷たく身をすくめる。
そうして霞ヶ関駅のA8出口へ向かうべく右に曲がった、そのときだった。
「…迎えに来たぞ、唯斗」
街路樹の影から、出会ったときを彷彿とさせるえんじ色のジャケットと細身の黒いチノパンに身を包んだ男が現れる。初春の陽ざしを反射する金髪に負けないような明るい笑顔に、唯斗は思わず駆け出す。
リチャードは、難なく唯斗を受け止めるようにして抱きしめた。
「これでも最速で迎えに来たんだが…遅くなってすまない」
「そんなん構わない、また会えただけで、良かった…っ!」
「俺もだ」
2か月経っても変わらない、安心する温もりと声。有言実行というべきか、本当にリチャードの方から会いに来てくれるとは思わなかった。
唯斗が今日で外務省での勤務を終えること、それに合わせて日本に来ることは事前にチャットで共有していたが、まさか外務省まで来るとは。
「羽田に到着したのが早かったというのもあるが、一刻も早く会いたくなってしまった」
「むしろ最速だろ、ほんと、お前、すごいヤツだな」
「愛の力だな!」
元気よくそう言ったため、唯斗は笑って体を離す。さすがに官庁街のど真ん中で抱き合い続けるわけにはいかない。
リチャードもそれは理解しているようだったが、ハグでこそなくなったものの、唯斗の肩を抱いて地下鉄に向けて歩き出す。
「…ピナルエサヘルで一緒にいた時間は1週間だけなのに、もっと長い間ずっと一緒にいたみたいだった。7日間しか一緒にいなかった相手と2か月会わないことがこんなに苦しかったのは、初めてだ」
「俺もそうだぞ。なんだか、もうすでに人生を長いこと寄り添った相手と再会したみたいだ」
「本当にこれから長いこと一緒に寄り添ったらどうなっちゃんだろうな」
たった1週間と2か月でこれだ。この先の人生、二人で一緒にいたらどうなってしまうのだろうと思わず口にすると、リチャードは肩を抱く力を強める。
「簡単だ。もっと好きになる。もっと一緒にいたくなる。そういうものだろう?」
「…ん、そうだな。やば、ちょっと恥ずかしいこと言った。浮かれてんのかな」
「可愛いな〜!俺も大いに浮かれてるぞ!」
まるでバカップルの会話である。それに苦笑してしまうと、リチャードは相変わらずなことを言ってきた。恐らく、二人とも浮かれている。
二人はそれぞれ仕事を辞めた。
そして、揃って国際支援団体に入った。紛争地で子供や社会的弱者の支援をする大きなNGOだ。
二人が一緒にいる手段は他にもあった。だが、唯斗はピナルエサヘルでの経験を通じて、助けられる相手が限られる外交官ではなく、もっと多くの人を助けられる仕事がしたいと思った。一方リチャードは、唯斗が大使館で語ったことに影響されたとのことで、正しく人を守れるようにしたいと考えたのだという。
そのため、リチャードは元傭兵としていざというときに自衛する武力行使担当、唯斗は元外交官として高い語学力で人々から課題をヒアリングする交渉担当という役割でNGOに加わる予定だ。
ちなみに、フランスに本部がある組織ということもあり、二人のパートナーシップを認めて二人一緒に派遣してくれることになっている。
「俺たちは協力してあの国から脱出できた。だから次は、協力してもっと多くの人を助けよう。俺はそのために必要なら銃を取るし、唯斗はあのときと同じように、目の前の人間をただの人間として話を聞く」
「そうだな。そうやって、ピナルエサヘルで生きられなかった人たちの分まで、生きていこう」
「あぁ。二人で一緒に」
これからは、二人で世界をめぐることになるだろう。その行先はどこも、理不尽に人の命が奪われ、尊厳が踏みにじられる場所だ。
だが、どんな場所にも朝が来る。唯斗の人生がずっと夜だったなら、あのサヘルの砂漠の都市での出会いは、まさに人生の夜明けだった。