サヘルの夜明け−87
翌朝、といっても眠りに落ちてから3時間と経っていない午前7時に目を覚ます。
朝の陽ざしが差し込む中で起きるのは久しぶりだ。大使館はすべての窓にシャッターを下ろしていた。
そして、起きた時にリチャードがいるのは初めてだった。
今朝も多くの業務を抱える唯斗は、もう起きて支度をしなければならない。リチャードを起こさないようにできるだろうか、と思ったが、そこはさすが傭兵、唯斗が起きて身じろぎしただけで目を覚ましていた。
「…おはよ、リチャード」
「おはよう…って、まだ3時間も経っていないんだな…」
お互い盛大にあくびをしながら起き上がる。ただの仮眠だ。リチャードはもう少し遅くても良かったのだが、一緒に起きられてよかった、とも思ってしまう。
先にベッドを降りて顔を洗い、軽く身支度をしてからスーツに着替えていく。昨日のうちに洗濯とアイロンがけをしてあったワイシャツを着てスラックスを履いたところで、後ろからリチャードに抱きしめられた。
「あークソ、朝じゃなければ隙ありってことで抱いてたのに…」
「え…あぁ、着替えてたから?お前それだけでそんな…」
ティーンエイジャーじゃあるまいに、と思っていると、リチャードからジト目で見られる。
「昨日誰の不屈の忍耐のおかげで、仮眠取れたと思ってるんだ〜?」
「自分で欲情して自分で耐えて評価を求めるとかマッチポンプすぎるだろ」
「はは、唯斗の返しってなんだか面白いよな」
「なんだそれ…」
相変わらず感性がよく分からない。リチャードは一瞬離れるが、今度はスマホを持って唯斗の肩を抱いた。
「というか、忘れないうちに連絡先を交換しよう」
「あぁ、確かに」
唯斗は久しぶりに私用のスマホを鞄から取り出し電源を入れる。充電はしてあるが、ここ二日は使っていなかった。
電源を立ち上げてから、いくつかの連絡手段を交換する。チャットを互いに送って確認をすれば、帰国してからもつながる手段を確保できた。
「ちなみに、クライアントとの私的な連絡先交換は厳禁だから内緒だぞ?」
「それは俺も同じだ。なんなら俺は公務員だしな」
どちらもさすがに大っぴらにはできないことだ。だがさすがにこの程度でどうこう、ということは二人も考えていないため、気にせずにスマホをしまった。
「唯斗は今日どうするんだ?」
「軽く朝飯食ってから、パスポート持ってる人たち全員分の出入国処理をジブチ大使とやる。ピナルエサヘル側での出国処理ができてないからな。そのあとは、パスポートを持ってない現地人たちの特別入国許可の手続きと、現地人全員の特別在留許可の法務省への申請と、自衛隊との調整と、ジブチ空港との調整と、ジブチ政府への連絡と、本省への報告と…」
「た、大変だな…」
「外務省と法務省から応援来てるからそんな大変じゃない。まぁ、9時半の搭乗手続きまでにやるから時間はないけどな。じゃ、また後で」
「あぁ」
ジャケットまで着れば準備は完了だ。ほかの省からの役人もいるためネクタイもしている。
唯斗はいったん部屋を出てジブチ大使のいる部屋へと向かった。
そうしてリチャードに挙げた行為の倍近い業務をすべてこなしたころには8時半となっており、そこから今度は各部屋を回って集合時間を伝達していき、基地のトップに感謝を伝え、方々に連絡や報告を行っていく。
そして9時に自衛隊のバスで全員が隣接するジブチ空港に移動し、20分後、滑走路に降り立った。
ジブチも砂漠の国であるため、朝は比較的涼しい。この時間でも冷たい風の方が厳しく、コートがなければ寒いくらいだ。厚着をしていない現地人たちは震えていた。
バスから直接、見慣れた日本の航空会社の飛行機に人々が列をなして向かっていく。タラップを上る乗客たちの照合はCAが行っていた。
ジブチ大使など基地の人々に改めて挨拶をしていれば、あっという間に列は飛行機のタラップに差し掛かり、最後にバスからリチャードが下りてきていた。
唯斗も搭乗するタイミングとなり、唯斗は荷物を持って、リチャードのところへ行く。リチャードはこのあと、トルコ経由でロンドンに向かうことになっている。
また後で、とは言ったが思ったよりもずっと忙しく、ほとんど会話はなかった。部屋を出て、今ようやく改めて会話ができる状況だ。
「…それじゃあリチャード、いったんお別れだ」
「そうだな。東京に着いたら連絡してくれ」
「ん。改めて、本当にありがとう。リチャードがいなければ、ピナルエサヘルから脱出することはできなかった。日本国として、俺個人としても礼を言う」
唯斗が手を差し出すと、リチャードの大きな手が握り返す。たくさんの人と握手を交わしてきたが、離れるのが名残惜しかったのはこれが初めてだった。
「…唯斗が俺を見つけてくれた。だから次は、俺が会いに行く。必ず。だから待っててくれ」
「…っ、あぁ。待ってる」
自衛隊や役人たちの視線がなければ、キスでもしていただろう。だが、そうはしない。まだ二人は傭兵と外交官で、二人を引き合わせてくれたその立場を、最後まで全うするつもりだった。
だから今は、傭兵と外交官として、この場を後にする。
唯斗はリチャードと別れ、飛行機へと向かう。タラップを上り、外交官パスポートをCAに見せれば、「お疲れさまでした。ごゆっくり休んでください」と声をかけてもらえた。
通されたのはビジネスクラスで、外務省のねぎらいなのだろう。窓際の席に通されると、普段滅多に鳴らない私用のスマホが通知を鳴らした。
画面を開くと、リチャードからのチャットだった。
『愛してる。また会おう』
窓から外を見れば、リチャードがこちらを見つめていた。どうやらあの距離でも、唯斗を視認しているらしい。こんなところまで傭兵なんだな、と唯斗は内心で苦笑しつつ、慣れない操作で返信を返した。
『俺も愛してる』
リチャードはスマホを見て笑い、こちらに手を振ってから、踵を返してターミナルへと向かっていった。リチャードが振り返ることはなく、飛行機も動き始める。
そして、ジブチ時間1月20日10時、29人の邦人と22人の現地協力者、2人の外国人を乗せて、飛行機は成田空港へと飛び立った。