Liberté−1
医者サンソン×金融マン主
ルクセンブルク大公国・公都ルクセンブルク市
流れが緩く、澄んだ水面に落ち葉や草きれが漂う川を眺めながら唯斗はコーヒーを一口飲み、ソーサーに戻す。ソーサーもカップも同じ柄で縁取られていて、この国らしい素朴で控えめのそれは印象が良かった。
欧州ではコーヒーだけを頼むとクッキーなどがついてくることが普通だ。ソーサーに置かれた個包装のそれはまだ開けていない。
水面に向けていた目線は自然と店内に戻る。唯斗は窓際の定位置となった席に座っており、広くはない木目調の調度品で整えられた店内は静かで落ち着いている。観光客も、落ち着いた空間の中では騒がない。
開かれた窓の外から日差しが差し込んできて、同時に夏らしい爽やかな風が吹き込んでくる。故郷の一つである日本と違って、7月も後半となったこの時期でも風は乾いて爽やかだ。
日差しによって、窓の外にある川の水面に光が反射し、そして対岸の建物がクリーム色に揃えられた壁面を輝かせて光を届けてくる。さらにその上に視線をやれば、要塞都市たるこの街を象徴する崖を挟んで、旧市街の屋根が並んでおり、青空が広がっていた。
ルクセンブルクという街は、首都と国名が同じであり、中世から現代に至るまで一貫して名を馳せた由緒正しい国だ。ずっと独立していたわけではないものの、地形も相まって欧州では小国として存続した。小国ながらこの国は一人当たりGDPが世界最大という金持ち国家であり、その理由は、この街が国際金融を構築する2つの国際金融決済システムの片方を担っているからだった。
国際的な金融国家である小国だが、首都ルクセンブルク市は旧市街エリアが街ごと世界遺産に登録されている。戦火を免れた街並みは美しく、クリーム色の壁面と濃紺の屋根で統一された建物が並ぶ。
街並みにおける最大の特徴は、2つのエリアに分けられる旧市街の地形にある。大きく蛇行するアルゼット川に沿って削られた急峻な崖の下に、川沿いの低地エリアがあり、この低地に広がる市街地を「グルンド」と言う。旧市街の崖の上からこのグルンドを眺める光景が、ルクセンブルクの有名なランドスケープである。
旧市街の南側にはペトリュス川が流れ、旧市街の北から東にかけて蛇行するアルゼット川に合流するため、旧市街は三方向を川と急な崖に囲まれている。この2つの川とそれぞれの急な崖に三方向を囲まれた地形が、独特の景観を作り上げていた。
「渓谷要塞都市」とも称される難攻不落の街は、今やEU統合の中心地の一つとして、そして国際金融を管理する街として機能している。
ペトリュス川を挟んで旧市街の南側には新市街が広がり、ルクセンブルク中央駅がある。この駅からはパリと繋ぐフランスの高速列車TGVや、ブリュッセルに至るICといった長距離列車が出ている。乗り換え1回以内で行ける他国の首都は実に5か国に及ぶ交通の要衝だ。
現在唯斗がいるのは、そんな風光明媚なルクセンブルク市内のグルンドエリアで、アルゼット川に面して建っている建物の1階部分に居を構えたカフェ兼バーである。このあたりは昼間はカフェ、夜はバーという営業形態が多い。
先ほど口にしたコーヒーのぬるさに、そろそろ区切りをつけるか、と、電子書籍を読んでいたタブレットをテーブルに置く。クラッチバッグを持ち歩いている理由などこのタブレットだけで、小ぶりなクラッチバッグには他にめぼしいものなど入っていない。
いつも通り、何気ない土曜日の昼下がりだ。朝のランニングをして、朝食とシャワーを済ませ、家事を行い、昼食をとってからこのカフェで午後の読書をする。そんないつもの土曜日に突如として起こったイレギュラー。
再びコーヒーカップを手に取って一口飲もうとした、そのときだった。
「あっ、!」
「ッ、つめてっ!!」
思わず口をついたのは日本語で、その冷たい感覚に驚いた。右の二の腕から肘にかけて、冷たく濡れたシャツが肌に張り付く感覚がする。
「すみません…っ!!」
慌てて血相を変えて謝ってきたのは、白銀の髪に薄いアクアマリンの瞳をした、秀麗な顔立ちの男だった。