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「降りてみようぜ」という鋭児郎に無言でうなずくと、急な階段を下りて砂浜に降りた。先ほど言っていたように、誰もいない。
砂浜には木の枝や干からびた海藻、ガラス瓶の破片や無数の石ころなど様々なものが散らばっている。さすがにビーチリゾートではないようだ。
黒い海の水平線から上は、灰色の空。
しかしその空は、ただ武骨なわけではなかった。雲の隙間から、日差しが差し込んでいるのだ。海の一部だけを照らすように、スポットライトのような光が、いくつか筋となっている。
「…海だ」
思わず、そんな声が漏れてしまった。あまりにも感想としてはお粗末で、もはやありのままを述べただけだ。だがその言葉には、無数の感情があった。
「お兄ちゃん、いつか海、見てみたいね」と言っていた弟たち。「シオンが一番早く見られるかもね、日本は小さな島国だから、ちょっと歩けば見られるもの。あなた一番日本語できるんだし、きっと私たちの中で一番先に海を見るわね」と言っていたのは姉だ。
「カスピ海でいいだろう、水平線なんてどこも変わらないさ」と母国愛を出していたのは父。「いやね、この国はカスピ海にすら面していないじゃない。それに日本はそんなすぐ海が見られるほど小さな国じゃないわ」と言って笑ったのは、母だ。
学校でその話をすれば、金持ちの友達が家族旅行で見た話を偉そうにして、男子たちで泳げたのかとからかった。近所では日本と同じ島国のインドネシアから来た男が「バリの海はいいぞ」と教えてくれたし、トルコ人は「エーゲ海が一番に決まってる」と張り合っていた。
そんな日常が、平和なやり取りが、確かにあった。
あの日々は、もう戻ってはこない。記憶のなかに出て来た人々の中に、無事が確認できている人もいない。それは、家族もしかり。
でも、悲しいだけではない。なぜならシオンは、「今」を生きている。前を向いている。
その隣には、鋭児郎がいてくれている。それがどんなに奇跡的なことか、どんなに幸せなことか。
込み上げてくるものは、頬を伝うものは、悲しさだけでできるものではない。鋭児郎への温かい気持ちも存分に含まれたものだ。
だから、隠さなかった。濡れた頬に海風をより直接感じながら、振り返って、鋭児郎を見る。
泣いているシオンを見て驚いている。すぐに慌てて「大丈夫か!?」なんて言い出すものだから、変わらない優しさに、思わず、笑ってしまった。
そう、笑えたのだ。今シオンは確かに、笑っている。
***
打ち寄せる波の音、独特な潮の香り、広大な海を吹き抜けてくる風の先には、雲の切れ間から光が海上に差し込んでいる。
天使の梯子と呼ばれる天候現象である美しい光景を背景に海を見つめるシオンは、日ごろ天使だと言ってはばからない鋭児郎も、息を飲むほど美しく思えた。
そんなシオンが振り返ると、その目からははらはらと涙があふれていて、あのゴミ出し事件以来となるその水滴に鋭児郎はつい慌ててしまう。何か感傷的になっているのではないか、そう思って「大丈夫か」なんて聞いてしまった。
するとシオンは、そんな鋭児郎を見て、ふっと笑みを浮かべた。それは、これまで無表情がそれに近い僅かな表情しかしてこなかったシオンが見せた、初めてのはっきりとした笑顔だった。
「僕は大丈夫だよ。ありがとう、鋭児郎」
優しさの滲む笑顔は、様々な記憶も葛藤も乗り越えて、鋭児郎の隣に立とうとしてくれている「今の」シオンのものだ。
その笑顔は、本気で世界で一番美しいものだと感じてしまった。
あぁ、好きだ。好きで、好きで、堪らない。心の底からせりあがるそれは、この前芦戸が言っていたことに合致するものだった。
「……―――好きだ。好きだ、シオン」
「僕も好きだよ、鋭児郎」
思わず抱き締めてしまった腕の中、シオンは静かにそう返してくれた。鋭児郎と同じ好きなのか、普通なら分からないだろう。だが2人は、エンパスによってどんな相思相愛の人たちよりも心が繋がっているのだ。
抱き合って、触れ合った瞬間から、互いの感情は互いを行き来する。
鋭児郎のシオンに向ける「好き」は、よくある恋愛のそれと、まったく同じではない。交際したいという願望も特にはない。
もっと単純で純粋な気持ちと言ってもいい。もちろん、肉体的欲望はあるし、シオンが他の人と交際するのは嫌だと思う。
しかし一番強くて中心的な気持ちは、「一生大事にして、一緒に生きていきたい」というものだった。
ずっと一番近いところにいたい、というのはシオンも同じ「好き」の気持ちであるようで、夏祭りで伝えてくれたように、鋭児郎に他の人のところへ行ってほしくない気持ちもある。
性的なところはまだシオンの考えの範疇にはない概念のようだったのでおいおい考えていくとして、今は、2人が同じ感情を共有していることが何よりも大事だった。
「…シオンのことが好きだ、愛してる。だから、ずっと、一緒にいて欲しい」
「…僕でいいの」
「はは、分かってんだろ」
『分かってるよ、言葉なんてなくても』
それには心の中でシオンが返してくれた。そう、2人の間には、言葉はいらない。
直接、気持ちや想いを、2人は互いに受け取って、渡せるのだから。