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7月に入ろうかという時期、暑さと湿度が本気を出してきて、その気候にシオンが辟易としていた頃だった。
「海に行こう」と鋭児郎にもちかけられて、二つ返事で頷いた。

もともとシオンは、いつか海を見てみたいと思っていた。もちろん、写真やテレビで見たことはある。いつか自分の目で、それはあまり欲のないシオンの数少ない希望のひとつだった。

シオンがいたソグディアナが二重内陸国という世界でも珍しい国であったこともそうだし、内戦によって人と人が殺し合う世界とは無関係の、泰然とした母なる海を見てみたいという思いからでもあった。

休みの日に、シオンは鋭児郎に連れられて電車に乗る。市内の鉄道に乗ったことはあったが、今日は房総半島を東に横切る鉄道に乗る。それなりの時間を電車内で過ごす、ちょっとした旅だ。
東京湾が最寄の海岸線ではあるが、「せっかくなら外洋だろ」という鋭児郎の言うままに、太平洋に面した海岸へ向かっている。

電車に揺られながら、曇りがちな空を見上げる。


「今日は涼しいし天気もあんま良くねぇから、あんま人いねぇと思う」

「…涼しくは、ないかな」

「あっちは乾燥したステップ気候だもんな、湿度交じりの暑さとは違うよな」



からりとした水気のない砂漠とステップの大地が母国の光景だ。こんなにも肥沃な緑に囲まれた国ではない。だから、この湿度はかなり堪えた。


「この夏がシオン初めての日本の夏だもんなぁ」

「そうだね、去年の秋に来たから」

「ときが過ぎんのマジではえー」

「ほんとにね」


シオンが来日したときにはすでに夏は終わっていた。そこから、秋にあのゴミ出し事件があって、冬に鋭児郎の受験があって、春に雄英に入学した。
初夏の体育祭と梅雨の職場体験も終えて、いよいよ夏本番だ。長いようで短い半年だった。

そんなことを話していればあっという間に電車は目的地に着いて、そこからバスに乗り換えて海岸へ向かう。結構な距離を走る路線バスで、市街地や田園を繰り返しながら、徐々に有名な海岸へ近づいていくのだ。


「九十九里浜ってめちゃくちゃ有名な砂浜なんだけどよ、ただでさえ広くて人が分散する上に、外れの方はこの時期だとまだ全然人がいねぇんだ。たぶん、独り占めできるぜ」

「そうなんだ」


太平洋側のこちらも雲が多く、ところどころうっすらと青空が見えないこともないような、そんな天気だった。確かに気温も、夏というには低いのかもしれない。海水浴に適したコンディションではないのは、海を知らないシオンでも分かる。
やがて、バスは住宅街の道で突然開けたところに出た。直線の道の先に、壁があって終わりが見える。堤防だ。その向こうには、少しだけ水平線が見えていた。


「っ、鋭児郎、あれ」

「おう、見えて来たな」


そのあたりでバスを降りると、途端に潮の匂いが鼻についた。そして、波が打ち寄せる音。五感いっぱいに、海が感じられる。


「こっち」


鋭児郎に手を引かれて歩き出す。まっすぐ堤防に向かうと、風が常に海から吹き付けてくるのが分かった。
道路を渡って、堤防に設けられた小さな階段を上る。
すると、堤防を越えたその瞬間、視界いっぱいに、広大な海が広がった。


「う、わ……!」


何も遮るものがなくなり、潮風が全身に当たる。砂浜に打ち寄せる白波も、沖合まで連なる波も、更に沖合の黒々とした水の塊も、視界に収まりきらないほどだった。


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