人の彼るな麗華−8
ようやく残暑も落ち着いた10月、いまだ轟家と圧気家との交渉は続いているが、勝己は変わらずに応利の世話をしていた。応利は勝己の意志さえ変わらなければ轟家にも連れて行くつもりのようだし、最も近いところで応利を守るというこの立ち位置を勝己は捨てる気などない。
だから、今もこれからも、勝己のすることは応利を守ることだし、勝己の見るものは応利のことだけである。守るものや見ていなければならないものが多い焦凍とは違うと思っている。
ただ、交渉の方は概ね順調で、両家がともに規模が大きいために話さなければならないことが多く長引いているだけのようだ。そのため、焦凍と応利の交流も学校以外の場に拡大されるようになり、積極的に2人の関わりを両家が推奨するようになった。
同い年で腕も立つ勝己という専属執事の存在は、疎ましいながらも非常に便利であるのも事実なようで、だんだんと勝己に任されることが多くなっている。
そんなある日、焦凍が日曜に応利を訪れ、サロンでくつろいでいた。2人の他に控えているのはやはり勝己だけで、焦凍にまでいろいろとしなければならないのは癪に障るものの、仕方なく勝己はティーセットを弄っている。
サロンには最新のラジオが置かれており、大きなほら貝のようなスピーカーから声が聞こえてきている。内容はただのニュースであることが多いが、最近は帝都のちょっとした出来事も報じられるようになっていた。
『帝都蒸気駆動飛翔機械条例の規制案が改正され、本日付けで一般臣民の飛翔が許される運びとなりました』
「あぁ、そういえば今日だったな」
「そうだな、パリはもう市民が普通に飛んでいたけどな」
「ロンドンも皆飛んでたな、年齢制限はあったけど」
ラジオから流れるニュースは、帝都における飛翔機械の使用が一般市民にも許可されるというものだった。飛翔機械免許を持つ者に限られるが、免許自体が市民に拡大されているのである。
飛行制限や速度制限など様々な規制は残るが、それでも人々が帝都上空を飛び回る時代がやってきた。
「焦凍は飛んだことある?」
「いや、ねぇな。応利は?」
「俺もない。一回飛んでみたいなぁ」
紅茶を一口飲みながら応利が呟く。勝己は欧州など行ったことがあるわけもなく、欧州の都市がどのようなものかは知らないが、2人の憧憬を駆り立てるものであるようだった。
「俺は免許持ってるぞ。飛ばしてやろうか」
「え、マジ?」
勝己は応利にそう提案してみた。ちなみに、最近は焦凍と応利だけなら口調を元に戻している。焦凍はライバルではあるが、そのような形式的なことで判断するようなヤツでもなく、そういうところはさすが応利の一番の学友だと思った。あくまで応利を上げるスタイルである。
「おう。旦那様も複数人乗りの飛翔機械を所有しておられるし、許可さえ下りれば乗せてやらんでもねぇ」
「ほんと!?俺一回飛んでみたかったんだ!」
「…おい、俺も乗せてけ」
「はぁ〜?俺は応利に言ってんだてめぇじゃねぇよ」
あつかましい焦凍だが、一応それが許される身分ではある。仕方なく、勝己は3人乗りの飛翔バイクを使用することを当主に申請した。忙しそうにしていたこともあり、当主は1時間以内の帰宅を条件にさっさと許可した。
とういうことで、3人は屋敷の駐車場でバイクに乗り込む。
「え、これどこに掴まんの」
「轟様はここ、お前は俺に掴まれ」
「んなわけねぇだろ、応利、ここじゃねぇか」
どさくさに紛れて自分に掴まらせようととしたものの、目ざとく焦凍に掴まるところを見つけられてしまった。3人乗り用なのだからあって当然である。
勝己は先頭に、後ろに応利、その後ろに焦凍が乗る形でバイクに乗り込む。立ち乗りで、ベルトをつけて足を床に固定する。
「飛ぶぞ」
「りょ、了解!」
「任せた」
公爵と侯爵の嫡男を乗せて飛翔するわけだが、それくらい勝己にはプレッシャーでもなんでもない。快適にし殺すと思いながら、バイクを起動した。途端に蒸気が噴き出し、徐々にバイクは飛翔を開始した。
そしてバイクはどんどん上空へと上がっていき、後ろから応利の興奮した「おお!」という声が聞こえてくる。
高度は規定通り80メートル地点。すでに小石川区だけでなく、帝都が見渡せた。
勝己は推進力エンジンも起動し、ついにバイクを前進させた。かつて本所区を飛び回っていた頃からは考えられない安全運転で物足りないが、それでも後ろの応利は十分らしい。
「すごい!飛んでる!あ、あれ宮殿じゃん!中枢地区と鉄橋もくっきりだし、浅草も銀座も分かる!」
風を感じながら帝都の空を切り裂くように進む。もっと高いところを飛行船が漂い、眼下の大都市には無数の人間が蟻のように歩いている。レンガ造りの建物群と木造の住宅が入り混じり、その合間に煙突が尖塔のように突き出して蒸気を出している。鉄橋の調圧塔からも白黒の煙が噴き出しており、中枢地区からはさらに黒い煤煙が、深川区と本所区全域から工場の煙が空に出ている。
あまりそういう空気の悪いところに行かないようにしつつ、勝己はちらりと後ろを振り返った。
案の定、焦凍も街並みより応利の方を見ている。つい、勝己もその応利の姿に視線を留めてしまった。
風に髪をなびかせ、目をキラキラとさせて無邪気に喜びながらも、道具として扱われる日々から逃れたいという潜在的な羨望のような色も見える。これまでの苦労や、勝己と焦凍に対する数々の優しさを滲ませる柔らかな顔だちは、それでも帝国で最も高貴な家のひとつで暮らす優雅さを保っていた。
華麗なる彼の人は、帝都をどのような気持ちで見下ろしているのだろうか。
だがそれが分からずとも、勝己は、そして焦凍もきっと、応利に降りかかる災いを少しでも減らし、応利を守りたいと、そう思うのだ。