01

 吸い終わった煙草やぐちゃぐちゃに丸められたチラシ、ところどころ欠けたビンにへしゃげた缶。生臭いゴミが散乱する路地裏を、女が二人、我武者羅に走っていた。

「お願い、ちゃんと走って!」

 前方を走る女は黒い髪を振り乱して、怒りや悲しみの入り混じった声で叫んでいる。彼女に引き摺られるようにして走る後ろの女は、「やだ、やだやだ、痛い、やめて」と泣きそうな声で繰り返した。女はそれを無視して、尚のこと腕を強く引く。
 ぬめりとした謎の液体に足が取られ、ひっくり返りそうになるのを彼女は何とか耐えた。後ろの女が、「もういいじゃん、もう。放っておいてよぉ」と、とうとう泣きじゃくり、その場で疼くまろうと足に力を込める。その体を無理矢理背負い、彼女は再び走った。
 「追え!逃すな!」背後で入り乱れた怒声が近づいているのが分かる。小石か何かが肌を掠めた。
 目前に商店街の大通りがあった。具体的な解決策は思いつかないまま人通りを目指して路地を抜けると、

「ウワッ」
「急になに?鬼ごっこ?」

 突然現れた女に周囲が一瞬騒めいた。彼女は目線だけで来た道を確認する。男たちは、まだ追いかけてきている。
 ――せめて、この子だけでもどうにかしないと。
 店の中、通りを抜けた先の路地。隠れられる場所がないか瞬きも惜しんで素早く探した時、彼女は雑踏の中にその男を見た。
 黒髪の、背が高い青年。柔和な顔立ちと裏腹にその首元と指先にタトゥーがあって、ほとんど反射的に女は男の腕を掴んでいた。

「え?」
「助けて!」

 ただでさえ丸い男の瞳が一層大きくなる。それから、何かを思案するように瞼が伏せられ、夜闇を閉じ込めたみたいに深くて暗い眼が女を射抜いた。女はそれを、逸らさぬように見つめ返す。掴んだ腕が震えている。それでも負けじと力を込めた時、路地裏から追っ手が飛び出してきた。
 いたぞ、と誰かが叫んでいる。
 眼を開いたまま、女は紡ぐ。「お願い」そう零すのと、ほぼ同時だった。

「――え」

 誰の驚きだったのかは、分からない。
 次の瞬間には追手の男達は通りの壁沿いに座り込んでいて、傍目には酔っ払いが眠っているようだ。女に助けを求められた男はその横にビール缶をカコンと立てると、「これで良かった〜?」と首を傾げた。
 言葉も発せないまま、女は何度も頷く。
 通りを行き交う人は何事もなかったかのような反応で、母親に手を引かれた子どもなんかは「寝てるひといる〜」と追手の男を指差していた。
 ふと、背負っていた友人が一切抵抗をしなくなったことに気づいた。名前を呼んでも、反応がない。ひやりと背筋に汗が伝って、おそるおそる表情を伺おうとすると、

「ああ、その子も寝させたよ〜。なんかまともな状態じゃなさそうだったから」

 飄々と告げられた。
 寝させた、とは気絶させた、の意味だろう。冷静になると、背中越しに彼女の心臓が脈打っているのが分かった。ほっと息を吐き、歩道に設置されたベンチにゆっくりと降ろす。

「それで?何でこんなのに追いかけられてたの〜?」

 女が再び向き直ると、男が遠慮なく問いかけた。びくりと女の肩が跳ねる。が、それが命の恩人にする態度ではないことにすぐに気づいたのだろう、彼女は平静を装おうように息を吐くと、

「……路地で、絡まれただけ」
「へぇ」

 男の目に、少しだけ愉しげな色が浮かぶ。指摘するのは怖くて黙っていると、彼はゆっくりと目を細めて「それが本当なら災難だったね〜?」と言った。
 喉の奥に、冷たい空気が走り抜ける。音にならない声が微かに漏れたのを、彼は気づいたか、気づかなかったか。

「……あのね。僕、嘘は嫌いなんだ〜」

 相変わらず間伸びした声だった。相手を威圧するような太い声でもないし、殺気に溢れた冷たい声でもない。それでも、理屈ではなく直感的に、正直に話さねばと思った。嘘は見抜かれるし、その上で殺される。その結末がはっきりと、脳裏に浮かぶ。

「……この子」

 声は震えていた。それを押さえ込むように、女は服の裾をぎゅっと握り締める。

「わたしの、友だち。最近様子がおかしくて、後を着けてて。そしたら、変な薬みたいなの貰おうとしてたから……、無理矢理引っ張って逃げてた」

 洗いざらい話した彼女に、男は「なるほどね〜」と、納得したというように頷いた。それから、コートのポケットの中から安っぽいボールペンを取り出し、「何か書くもの持ってない〜?」と問いかける。
 女はショルダーバッグから小さな手帳を取り出すと、おずおずと彼に差し出した。受け取った彼は最後のページを開くと、さらさらとペンを動かしている。

「はい」

 見ると、そこには連絡先が記されていた。電話番号と、メールアドレス。男の意図が分からず固まっていると、

「たぶん君、目つけられたよ〜。また襲われるかもしれないからさ、連絡先教えておいてあげる」
「どう、も……」

 ――目をつけられた。
 夜も眠られなくなりそうな恐ろしい発言を、男は呼吸をするかのように伝える。
 女は彼が制圧した追手の様子をちらりと見た。目に見えた流血はない。が、生きているかどうかも怪しい。

「あと名前聞いといていい〜?僕は南雲ね。22歳だよ〜」
「……苗字名前。大学3年生」

 短く述べると、男――南雲は「名前ちゃんね〜」と人当たりの良さそうな笑みを浮かべて。「じゃあまた、何かあったら連絡して」と雑踏の中へ姿を消した。

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