02

 その後暫く、名前は眠れない夜を過ごした。
 今まで気にも留めなかった風が窓を叩く音や、誰かがアパートの階段を上がってくる音に怯えながら布団に潜り込む。真昼間の、気心の知れた友人に囲われた大学の授業中ですら、一番後ろの席に自分を狙う知らない誰かが紛れ込んでいたらどうしようと思う始末だった。
 毎日化粧で誤魔化してはいるものの、徐々に色濃くなっていく目の隈。友人たちは揃って心配して、「名前までおかしなことになってないよね」と怯えた声で言った。
 先日名前が尾行していた友人が何か良くないものに手を出していることに、彼女たちも気づいていたのだ。あの友人はその後、休学の手続きを済ませ、現在は実家に帰っている。彼女たちは事情を深く聞かず、「実家に戻るなら安心だね」と言葉を交わしていた。これ以上心配させるわけにはいかないと、名前は努めて明るく振る舞う。

「大丈夫。ちょっとアニメの一気見しちゃって」

 名前が漫画やアニメが好きなことは周知の事実だった。友人たちはあからさまにほっとして、「何見てたの?」「待って待って、当てるから」「当てれたらお菓子奢りね」などと口々に言い合った。



 南雲から不吉なことを告げられて一週間と少し。
 人というのは慣れる生き物で、不思議なことに名前は日々自分を襲っていた恐怖にも徐々に慣れていた。慣れた、というよりも、あの出来事が夢だったのではないかというような気持ちになっているのかもしれない。最近は夜に眠れなくなることもないし、授業中に恐ろしい空想をすることもなかった。すっかり陽の落ちた夜道では後ろが気になるものの、それはおそらく名前に限ったことではない。
 元気になった名前に友人たちは「アニメの一気見で寝不足だった」ことをすっかり信じ、不穏な空気はどこかへと消えた。
 それからまた数日が経った日のこと。蝉の鳴き声が一層強くなった暑い日に、名前は所謂合コンに誘われた。合コンと言っても全員同じ大学ではあったけれど、名前が少しいいなと思いつつ接点がなくて連絡先の交換すらできずにいた男の子もおり、彼女は二つ返事でそれを了承した。人数は彼女を含めて4対4。日時は今週金曜日のゼミ終わり。
 いつもより綺麗にメイクをし、些か気合の入った――けれど構内で浮きすぎることもないお洒落な装いで大学に赴いた日の帰り、さあこれからお店に向かうぞと廊下をそそくさと歩く中、周囲がやたらと騒がしいことに気がついた。

「え、誰あれ」
「あんなイケメンいたっけ?」
「めちゃくちゃ背高いんだけど」

 黄色い声で女の子たちが口々に言い合っている。イケメンのOBでも来たのか、とその人だかりを抜けようとして。

「ア!?」

 名前は思わず、声を上げる。
 首元に黄金比のタトゥー。腕にもタトゥー。指にもタトゥー。黒い髪から覗く丸い瞳。整った鼻筋。見間違えるはずがない。先日出会った謎の男――南雲だ。

「あ。いたいた〜」
「ヒィ」

 気の抜けた悲鳴が零れた。周りの学生からの視線を一斉に浴び、名前は思わず逃げ出した。否、逃げ出そうとした。

「ちょっと、逃げないでよ〜」

 彼に背を向けると同時に腕が掴まれたのだ。ゲ、とまた声が漏れる。蛙が潰れたような些か下品な声だった。
 半ば強引に南雲と対面させられることとなった名前は目を白黒させながら、

「何でここが……、てか何の用事で……!」

 支離滅裂に問いかけた。

「ああ、この間会った時に財布の中の学生証が見えたからさ〜」
「ぬ、盗み見……!外道だ……!」
「あはは、その外道に助けを求めたのは君だけどね〜」
「うぐぅ……!?」

 愉快そうに目を細める南雲の手を振り解き、名前は呻き声をあげる。口論はヒートアップし、二人の周りには尚のこと人だかりが増えた。背の高い南雲はやはり目立ち、名前の声はよく通る。
 押し問答の末、音を上げたのは名前だった。このままでは埒が明かない、(今更ではあるが)これ以上目立つのは嫌だと、南雲の背中を押して別の場所で話をすることを提案した。その、直後。

「ヤバ。痴話喧嘩?」
「あれ?つーかあの子って今日の合コンの……」
「うわマジだ。オレ絶対無理」

 失望したとでも言いたげな会話が聞こえ、彼女は振り向いた。そこには誘われていた合コンの男子たちが引き攣った顔で笑っている。当然名前が気になっていた男子もそこにはおり、彼女の顔からは血の気が引いた。
 視線を合わせないようにそそくさと立ち去ってしまった彼らを目で追い、彼女は大きく項垂れる。最悪だ、終わった。完全にドン引きされた。
 その様子に南雲も何かを察したのだろう。「なんかごめんね〜?」などと曖昧な謝罪を、ちっとも悪びれた風もなくしてくる。

「許さない……一生恨んでやる……」

 腹の底から振り絞った声に、南雲はやはりけたけたと笑うだけだった。

prevnext

back
top