(「
海底に埋もれた夜」の続編を想定しておりました。)
果たして、“この行為”に意味はあるのだろうか。
潮のにおいがツンと鼻をついた。
うだるような暑さ。それに、湿った空気が辺り一面に充満して肌にまとわりつくのが気持ち悪かった。更にじわじわ滲み出た汗がゆっくりと、しかし進度を増しながらするりと首筋から落ちてゆく、その不快感ときたら。
“あぁ、間違いなく夏なのだ……。”と、夏を実感するには充分過ぎるぐらいの気候だった。
大体ね、あたし、夏ってあんまり好きじゃない。だって、せっかくおめかししても汗ですぐに崩れてしまうんだもの。痛いくらいの紫外線は容赦なく肌を灼いていくし、夏ってお洒落をするのにつくづく向いてない。
けど、今日ばかりは我儘を言わないって決めたの。いくら自己中なあたしといえど、ここまで付き合わせておいて“文句を言ったらマズイ”ってことぐらい理解できる。
……でも。
でもでも、こんなに我慢したんだから、少しくらい吐き出したって構いやしないわよね?
―― 何よ、イルカなんてちっとも可愛くないじゃない!
見てると腹が立ってくるの。あざといのよ、アイツら。可愛く見えるように振舞って、人間が騙される様を見て陰でケタケタ笑ってるんだわ、きっと。知能指数が高い分、そんな小狡さをひしひしと感じるんだから。
甘えたような鳴き声をきゅーきゅー出して、
報酬を貰いたいばかりに人間に調教された振りをして。あの窪んだ瞳は何を考えてるんだかよく分からなくて不気味だし、身体の表面なんかぬめぬめして不潔そうだし、それにどう考えたって生臭そうじゃない? おまけに、サービスのつもりだかなんだか知らないけど、潮くさい水飛沫を盛大に飛ばしてくるし。どこをどう算定したって可愛い要素なんて微塵もないじゃない!
あぁ、失敗した。イルカショーなんて見たって、全然面白くない。大切な時間を無駄にしたわ。
いや……違う、違うのだ。
本当はそんなことはどうだっていい。
あたしには、もっと深刻に悩むべき問題がある。それは、あたしの左手の行方についてだ。“足”がついてるでもないのに独りでにどこかへ行ってしまった、なんてホラーな話をしているわけではない。状況は至極シンプルに説明出来る。
あろうことか、あたしの左手の主導権は、クロロの右手によって奪われたままなのである。
どうしてこんな事態に陥っているのか、原因は判然としない。もしかしたらクロロの念(それがどんな物なのか具体的には知らないので仮説を立ててみるしかないのだけれど)によって暗示でもかけられているのかもしれない。
けれど、いくらウスノロなあたしだって念が作動したら肌で感じるだろうし、無意識に回避行動だって取るだろうから、これは念によるものではないと考えられる。では、何だ。この“手”は一体何なのだ。
白状してしまえば、“この行為”が気になってイルカショーどころじゃなかったのだ。(だからって、惨めたらしくイルカに八つ当たりしたわけじゃないのよ? 本当よ?)
更に怪奇的なのは、先程から地上の空気が薄くなったんじゃないか、って錯覚を抱くくらい息が詰まって苦しくなったということだ。始めのうちは夏特有の熱風に触れているせいなんだと思っていたけれど、どうやらそうではないらしい。
ちら、と隣に座っているクロロを盗み見てみる。
ぼんやりとイルカを眺めているが、その表情からは何を考えているかまでは読み取れない。けれど、機嫌が悪いようには見えなかった。むしろ、どちらかといえば良さそうに見える。
何だこいつ、本当はイルカが好きだったのか。イルカショーを心から楽しんだのか。だったら早く言えよ。もうイルカとの触れ合い体験コーナーの募集は締め切られていたぞ。
「どうした? 何か言いたげだな。」
「べ、別に……。」
唐突にクロロの瞳がこちらを向いた。あたしの視線に気付いたようだ。(それも当然か。)
彼の瞳は太陽光に照らされて、黒翡翠のように艶めいていた。その色はどことなくイルカに似ている、気がする。
―― 自分の想像の及ばない存在ほど怖いものはない。
こうやって他人に触れられるのを許したことは未だかつて一度もなかった。そのため、どういった反応を返せば良いのかまるで分からない。
幼い弟たちと手を繋ぐのとは、わけが違うのだ。
神経がびりびりして、何だか麻痺してしまいそう。こういうときは、あたしも手を握り返したほうが良いのかしら。
そんな風にやきもきしていたら、クロロが笑ったのが空気を介して伝わってきた。
……なによ、それ。
「クロロ、いいかげん暑いよ。」
「そうだな、夏だから仕方ない。」
……この野郎、いけしゃあしゃあと。絶対にこの状況を楽しんでるでしょう!
ショー用の大きな水槽の中で、イルカたちは優雅に遊泳していた。きっと今日のような暑い日は、水の中はさぞかし心地いいんでしょうね。
負けた気がするのはイヤだから、絶対に羨んだりはしないけどね!
砂糖まみれの深海魚
180722