「嘘の定義って『事実とは違うこと』?」
教室に入るなり開口一番にそう言ったほんの目をじっと見つめて、つくえはゆっくりと瞬きをした。約1週間ほどのごく短い春休みが終わって初めての登校日、春の日差しが爽やかに降る朝のことであった。
無表情のまま、つくえが口を開く。
「おはよう」
「事実?事実……」
「今日はいつもより早いな」
「事実……」
噛み合わない。このやりとりは一般的な高校生の、健全な会話とは言えない。だがそれは2-Bの教室ではいたって普通の光景で、周囲で談笑をするクラスメイトたちはこれといった反応を示すことなく、会話に勤しんでいる。
ほんは宙を仰ぐ。
「嘘の定義はさ、何なんだろうな?」
首を傾げて唇を捻じ曲げるほんの瞳は、静かな朝日ですら霞んでしまいそうな輝きに満ちている。ただ、その瞳は頑なにこちらを見ない。つくえは無表情のまま、返答するという選択を捨てて、なぜほんがこんなことを喋りだしたのかということに思考を巡らせることにした。
昨日の夜、メールでやり取りをしたとき、ほんは普通だった。いつも通りおかしな絵文字を使い、おかしな日本語を送りつけてきた。それが普通。
しかし今はどうだ。嘘の定義について考え込んでいる。腕を組んで肩をすくめ、左斜め下に目を向けている。つくえは頬杖をついて、ほんの瞳を覗き込んだ。
「事実とは違うこと?本当ではないこと?してはいけないこと?」
ほんは誰かに問いかけるように疑問を述べる。その問いは、ほん自身の目の前にいるつくえに向けたもののように見える。だが、つくえはほんが自分に対して話しかけているようで話しかけていないということを理解している。なんせ長すぎる付き合いをしてきた仲だ。しかしこの光景を見るに、2人の会話は噛み合っていないから仲が良くないとか理解し合えていないのだとか思うかもしれないが、それは違う。つくえははっきりと、このおかしな少女を理解している。
「うーん」
つくえは「なぜそんな質問をするんだ」とは聞かない。なぜそれを問うのかと聞いたって、今のほんには聞こえないということを、つくえはよく知っている。今の彼女の頭の中は「嘘の定義は何なのか」という問題で埋め尽くされているに違いない。信じられないかもしれないが、ほんの思考回路は常人には考えられないほど単純明快な作りをしているのだ。
つくえはほんの肩をつかもうと腕を伸ばしたが、ほんの肩越しに見慣れた茶髪が見えて、思わず頬を緩めた。
「おはよう」
つくえが挨拶をすると、綺麗な茶髪がフワリと揺れ、朝日に照らされてキラキラと光った。
「おはよ、つくえ」
ほんの背後からのんびりとあくびをしながら現れたのは、仲の良い友人、まくらだった。
「あぁ。相変わらず朝はキツそうだな」
「んー、まぁね」まくらがゆっくりと瞬きをする。「……あら。ほん、あんた今日はずいぶん早く来たのね」
まくらが後ろからほんの顔を覗き込んだ。そんなまくらの行動にやっと意識が戻ったのか、ほんは目を上げる。
「嘘の定義は何なんだろう?」
戻っていなかった。つくえの口から微かな笑いが漏れる。
「これまた面倒なことしてるわね」
「朝からこうだったんだ。どうしてか知らないか」
「んー……」
問いかけられて、まくらは頬に手を当てる。
少し考えて、頬から手を離した。そしてつくえの方を見る。
「エイプリルフール、とか」
ポン、とつくえが手を打つ。なるほど、合点がいった。エイプリルフールは嘘をついても良い日だ。だから皆、いつもよりたくさん、意図的に嘘をつき、この4月1日を楽しむのだ。おそらく教室に来る途中に、ほんはこの話題を耳にし、「嘘の定義」について考え込み出したのだろう。
「ほん」
つくえはほんの肩に手を置き、優しく叩いた。
「まず事実が正しいという証明ができていないから、それに対して『違うこと』をあげることはできない」
「……」
急に黙ってしまったほんの瞳が、たしかにつくえのほうを見た。たしかに、はっきりと。
「皆そんな細かなことは考えない。なぜかというと……」つくえがほんを見つめる。
ほんが続けた。「前提を気にしすぎると、もっと根本的な……世界の事象の原因から考えないといけなくなるから……」
「そうだ。そうすると生きることすら危うくなる。だから、考えないんだ」
つくえの口調は、徐々に優しさを増していく。まくらはそのやり取りを眺めながら、つくえの前の席に腰掛ける。
「どう、ほん。落ち着いた?」
椅子の背もたれに腕を置き、そこに顎を置く。ほんを見上げるまくらの目は、緩く笑っている。
ほんの瞳が、申し訳なさそうにまくらを見た。
「……さっき、廊下で、カップルが話をしていて、」ほんが俯く。「それが変だったんだ」
「なにが、変だったの?」
「女の子が『あなたのこと嫌い』って言って、男の子が『俺もお前のこと嫌い』って言って、抱きしめあってたんだ」
今日がエイプリルフールであることにあやかった、仲睦まじいカップルのやりとりの一部。ただそれだけのはずだ。だが、ほんはそれを「変だ」と言う。
つくえが首を傾げる。
「それのどこがおかしいんだ?」
「エイプリルフールは嘘をつく日であって対義語を言う日じゃない。つまり『好き』という事実に対して嘘をつくときに『嫌い』というのは間違っている。
嘘=事実とは違うこと、と考えるなら、次のように考えるのが正しい。
まず『私はあなたが嫌い』が嘘なら、『私はあなたが嫌いではない』と言う条件を満たしたものが真実になる。そうすると『私はあなたのことが嫌いではないが好きでもない』も真実になる。『私はあなたのことが嫌いではないが好きでもない』というのは『私はあなたのことをどうでもいいと思っている』ということになり、」
続けようとしたほんの口を大きな掌が塞ぎ、考えようとしていたほんの頭を小さな掌が叩く。
そして、朝の爽やかな空気が漂っていた教室に、皆の呆れ返った声が木霊した。



2017/04/01

-9-
prev | cover | next