マーレで出逢ったエレンを愛した話/20210130







 初めてだった。落ちくぼんだ眼窩がんか隠す包帯をなぞったのも、栗色の長髪を指に絡ませながら胸を高鳴らせたのも。エメラルドグリーンの瞳に見惚れたのも、存在しないのにたまに痛むのだという、左脚のことを想ったのも。

「エレン」
「……ああ」

 健在の右側に寄り添い、頭を凭せかけつつ私はまばたきさえも惜しんだ。彼のすべてを記憶にとどめておきたくて仕方なかった。すこしざらついた皮膚や、傷の残った身体。いとしい男。

 けれどもう、会えはしないのだろう。
 私が初めて愛した、たったひとりのあの青年に、私はもう、二度と。
 


『いまからおよそ百年前。巨人大戦を終わらせたのはへーロスでもタイバー家でもありませんでした』

 記念すべき日を祝い、心臓に悪いボリュームでファンファーレが鳴り響いた。ステージに立つヴィリー・タイバーが口を切る。

『始祖ユミルの出現から今日に至るまでに、現生の命が三度絶滅しても足りないほどの命が巨人に奪われたとされています』

 レベリオ収容区──まさかこんな場所に世界各国のお偉方や新聞社が腰をおろすことになろうとは、そして私もいるなんて、人生とはいつ、どこでなにが起こるかわからないものだ。
 演説がよどみなく進行する。そんななか、私はひとりの男のことを考えていた。亡くなった父の私物を引き取るために廃兵院へと行った日、真っ赤な空のもとで出逢った傷痍軍人のこと。

おとなり、いい?
……どうぞ

 とくべつ社交的でもない私が、院の庭の、ベンチに腰掛けていた見知らぬ男に声をかけたのはその男も鬱々としていたせいだ。亡霊のようだったから。あのころ、最愛の父を戦争で亡くし、天涯孤独となってこの世への未練も失くした私もさながら死人のように毎日を彷徨っていた。

お名前は?
……クルーガー
クルーガー、さん

 思えば、最初から惹かれていた。知る必要なんてなかった名前を訊いたのも、さらに多くの不必要を求めたのも、そういうことだ。

 父がいなくなり、病院へ行く理由だってなくなったのに、私は時間さえあれば彼を訪ねた。そうしていろいろな話をした。彼に見送られる昼間があったし、見送る夕暮れがあった。

 戦争の後遺症で記憶が曖昧なのだと、そのため院にいるのだと、彼は語った。聞いたところで否定的な気持ちも嫌悪感も生まれなかった。いまどき狂っていない人間など稀有な存在だし、もしも正常で在るならばこの世界は生きづらい。もはや狂うことは義務であり、ある意味まともな人間のほうがどうかしている世の中だ。みんなどこかしらを歪め、痛みを和らげている。まっすぐで在ろうとすれば受けた衝撃に耐えられず、心は、たやすく折れてしまうだろう。

 エレンとの日々は流れていく。ふたりともが砂時計の砂粒になったように、毎日毎日、ゆっくり、けど着実に落ちていく。だれかに砂時計をひっくり返してもらえなければ、私たちに待ち受けるのは単純な終わりだった。それがなにしろ嫌だった。なぜなら私はエレンに、関わるほど惹かれてやまなかったから。日増しに彼への欲望を強くさせ、どうすれば離れないですむんだろう、どうすれば遠くにあるらしい故郷へ戻らないでいてくれるんだろう、と悩みもしたくらい。

 やがて、いつまでも、いつまでもエレンの傷が完治しなければいい、と願うまでになる。つまり彼が痛み続けていればいいと願っていた。最悪で、おそろしい思考回路。むろん自責の念はつきまとい、影法師みたいにどこまでも私を追ってくる。エレンを求めれば求めるほど欲求はふくれあがり、ばかな私は蝕まれ、苛まれ、雨の夜などは指を組んで懺悔した。

 強烈な力をもってして、エレンは私を魅了する。いつでもすこしも笑わない彼が、際限なく憂うあの瞳が、ひどく哀れで、いとおしかった。これが愛だというのなら、愛は醜いものだろうと思う。

 けれど、それでも、愛してると伝えたかった瞬間はおおくある。そのタイミングを数えてみれば途方もない。というより、途切れることなく毎秒であったから、あるいはたったの一回だったともいえるかもしれない。

お前とはもう会えない

 終わりは突然だった。もうここへは来るな、と告げられた夕闇を、辺りをたなびかせる乾いた風の音を、鮮明に憶えている。

どうして?

 聞いても、エレンはわけを答えない。ただ、私の頬を撫でた。指先はとても冷えていて、やっぱりかさついていた。そして、どこか苦しげにまつげを伏せ、ひとこと。

オレはきっと、お前を殺すことになる

 与えられたのは恐ろしい言葉、のはずだった。なのにあろうことか、私は自身の総てで歓喜して、受容して、心地好い方向へ流される。いっそのこと、いまここで。そんなふうにさえ思った、だって、会えなくなるくらいなら。つけくわえ、エレンが理由であれば私にとって死は、災いですらなくなるような気もしていた。

 でも。
 入院患者の精神状態に、悪影響を及ぼす。そんな理由付けがなされ、医者に面会を禁止されては為す術もなく。エレンの顔をみることは、叶わなくなった。いっさい。結局私はいまも、だから殺されてなんていない。

 エレンがいなくては困る、と、伝えればよかっただろうか。愛していると。そんなふうにかなしむ夜を、むなしい朝を、しばらくのあいだはいくつも過ごした。

『しかし近年、パラディ島内で反乱が起きました。フリッツ王の平和思想は淘汰され、始祖の巨人はある者に奪われました』

 演説は続く。争いに支配された国への忠誠心や愛国心もなければ、父もいない。エレンとの関わりもなくなって生きる意味を見いだせず、日々感じるのは虚無感のみ。私はまた、死んだように生きている。彼と出逢う前が、そうであったみたいに。ヴィリー・タイバーの熱弁は、おかげでちっとも響いてこない。耳を、頭を、心を通り過ぎ、去っていく。

クルーガーさん。下の名前はなんていうの?
そんなものが気になるか?

 抑揚のない声が脳内で反響した。最近のことなのに、そうとは思えない、さながら遠い過去のような日々がめまぐるしくよみがえる。父を失ったあと、唯一の支えとなっていた、彼との毎日。

『世界に再び、危機が迫っています』
当然。私ばかり知らないなんて不公平
……不公平、な
ねえ、教えて
『平和への反逆者。その名は』
オレの、下の名は
『エレン・イェーガー!!』
エレン? そう、素敵な名前──……

 ヴィリー・タイバーが声をいっそうはりあげ、エレン、と発した直後、ぐらりとステージが歪んだ。
 おどろいたものの、冷静になれば単なる私の眩暈だった。だってステージ上のだれもがバランスをたもち、きちんと立っている。ひとつの間違いも知らない兵隊たちみたく。

『一度地鳴らしが発動されてしまえば、我々にできることはもうありません。人類はただ終末の足音に震え、逃げ惑うのみ』

 ──エレン。エレンはいま、どこで、なにをしているんだろう。彼も地鳴らしに怯えているんだろうか。この場にいる人々同様。

 死を予感させる演説が、やっと耳に入ってくる。ともなってやってくるのは後悔だった。うずしおのようにとぐろをまき、悔いが私を襲い来る。
 結局いつまでも伝えられなかった想い。愛のこと。彼に逢えて幸せな朝があったこと。エレンと再会できたならいいのに。ああ、どうかはやく、はやく私を殺すために会いにきて。

『ですが……私は死にたくありません』

 そのときにこそ、私はひとつの感情をようやく伝えられるはずだから。

『それは……私がこの世に生まれてきてしまったからです』

 彼がいなければ、この世界はとたんに色を失くすのだと、知ってしまった。

『私! ヴィリー・タイバーは! マーレ政府特使としていまここに宣言します!』

 会場のボルテージが、マックスになるのを肌で感じる。熱気につつまれ、空気が振動する。地が唸る。歓声が耳鳴りと化す。

『パラディ島勢力へ! 宣戦布告を──!!』

 観客が一丸となって、こぶしをつきあげたとき。
 ふいに、景色が右と左、まっぷたつに割れた。ステージ裏に建っていた建物が、下から裂けたのだった。

 冗談めいた光景をしずかに見詰める。地下から、なにか強大なものがあらわれる。演出のために焚いたようなスモークがあがる。

 建物がいともたやすく左右に切り離されるさまを見て思い出したのは、舞台の幕開けだ。ひらかれゆく、幕。

 鼓膜をやぶくような唸り声が空気を震わせる。とっさに両耳をふさいだものの、叫びは手のひらをあまく撫で、指の隙間から体内へ垂れこんでくる。

 咆哮が終わる。
 夜空を見上げるような体勢で、うなじをかたむけたまま、一点を凝視した。

「巨、人……」

 人類の、天敵がそこにはいた。巨人の存在を理解したころには、ステージはすでに踏み潰されていた。

 巨大な身体がふり向く。それを黙然と見ていた。私も、ほかの観客も。なにをすることもできなかった。きっと、全員が。

エレン、ずっとここにいる気はないの?
……ああ

 ふり向いた巨人は、栗色の長髪を揺らせる。エレンの髪を指先に絡めながら胸を高鳴らせた、あの日の記憶が脳裏をかすめる。

とどまっていればいいのに……この地に
それはできない。オレは──

 ふり向いた巨人は、力強いエメラルドグリーンの眼光を放つ。エレンの眼窩を隠す包帯をなぞり、きれいな瞳に心を奪われたあの日の記憶が、とくとくとあふれる。

──オレは進み続ける

 目の前に立つ巨人の、力強くも、昏くも、弱々しくもあるうつくしさに囚われ、私はひどい頭痛をおぼえた。
 だって。

「ああ……エレン」

 あれは、彼だ。
 彼がいる、こんなに、近くに。

 気づけば全身が震えていた。武者震いみたいに、得体の知れない高揚感をくゆらせて。
 口角がゆるんでしまうのをおさえきれない。手を伸ばす。エレンに届きはしないけれど、私は果てない幸福感のなかにいた。エレンにはもう二度と会えない、なんて打ちひしがれる日々が、ようやく、幕をとじる。

 周囲では叫び、泣き、喚き、我先にと生に縋る人々の足並みがそろいはじめた。地響きがまわりを埋め尽くす。巨人の脚があちこち駆けまわり、地震を引き起こす。割れたガラスの破片や崩れたビルの瓦礫が飛び交う。街が破壊されていく。舞台のセットを壊すように、あっけなく。

「……!」

 大岩が飛んできた、とはっとしたとき、私は岩の下敷きになった。身体をつぶされ、痛みというよりも熱さばかりを味わう。息を吸っても、吐いても、血が吹きこぼれて止まらない。

 なのにもかかわらず、私は、エレンと出逢ったあとに独りで眠った幾つもの夜とは比べものにならないくらい、正常な呼吸をしていた。

「エレン、」

 呼びかけは情けない吐息にしかならなかった。だけどエレンが、私を見下ろした気がした。視界がぶれた。瞳にインクをこぼしたみたいに、世界が端から黒く染まる。私の命の幕引きだ。まにあうかわからない。だから最後の力をふりしぼる。精一杯、ふりしぼる。

「私はあなたに、出逢えてよかった」

 ちゃんと言えたかは定かではなかった。でももう、苦しみはなかった。ひたすらに胸が満ちていた。彼と再会し、彼のせいで死にゆく私はいま、この場にいるだれよりも、この世界じゅうのだれよりも、きっと幸せ者に違いなかった。

 硝煙が晴れる。壊れきらない夜空があらわになる。寝転がったまま眺める空はきれいだった。星が出ているのが、かろうじて見えた。世界はうつくしいのだということを、いまさら、思い出した。父が死んで以来、風景をおちついて目にとめるのは初めてだった。

 すべてに色がつく。まるで救いみたいな色がついていく。エレンが理由となるのなら、たとえばこの、死にさえも。





まるで救いにも似た色の





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