20250319
クソ、と、兵長がマッチ箱を床へ叩きつけた。目はうすくしか開けられないけれど、ひどく苛立った様子が伝わってくる。私たちをかくまう古びた民家の外は大雨だから、マッチがばらける音は聞こえなかった。
「……火が、シケッちまってつかねえ」
いくら擦ってもオレンジ色を灯さなかった火の元。仕方ない、ここへ来るまでに、外套はびしょびしょになった。持っていたマッチ棒も濡れてしまったのだろう。そんなものは役立たずだな、と思う。まるでいまの私みたいだ。
どおどおと大雨が窓を殴っている。奇行種の出現によりふたりで戦列を外れ、負傷した私のせいでやむなく陣を離脱したあと、こうして雨風をしのげる民家を見つけられたのは幾許かの幸運だった。
「寒いだろ」
体を布でつつまれる。たぶん兵長のジャケットだ。ずぶ濡れになった兵長だって寒いに決まってるのに、彼は自分のことなんかちっとも気にしてないそぶりで私の頬をすり、と撫でた。
「……大丈夫だ。この雨じゃしょうがねえが、すぐにやむ。そしたら拠点に戻るぞ。馬も生きてる。まあ、アイツも少しばかり脚をやっちまったが……走れるだろう。俺とお前を乗せてもな」
はい、と応えたくてあごを動かす。兵長が言うのなら、たとえばいま、こんな状況でだって大丈夫だ≠ニいう気が本当にしてくるから不思議だった。彼の言葉には安心感や説得力が強くぶれない力として付随する。信じたいと願う間もなく信じてしまう。それはとてもすごいことだ。
私にふれる兵長の指がどんどんあたたまっていく。だけどあるいは、私が冷めていっているのかもしれなかった。──それでもいい。私に残された体温も、なにもかも。持ち合わせているすべてを、この人に明け渡してしまいたい。
吸っても吐いても苦しいけれど、必死に、がむしゃらに呼吸を続けた。そのことを頑張る以外になにもできないのが悔しい。いっそのこと、マッチ棒になれたらよかったと思う。傍にある暖炉にくべられてもいいし、この部屋を照らす燭台代わりになってもいい。今日はこんなに冷えるから、兵長の手もとをあたためて、震えをなだめたり。兵長がいつもそうしてくれるように、大丈夫だと繰り返し伝えるみたいにして光りたい。私は、兵長を生還させるための灯し火になりたかった。そんなふうに命を燃やし、灰になれたなら。
「兵長」
どうにかふり絞り、口をひらく。
「……なんだ」
呼びかけに気づいてもらえるかはあやしいところだったけれど、兵長は上体をおって、私を覆うようにした。口もとに近づけられる耳、真上で黒髪が揺れる。ふわりと兵長の香りがした。血と、汗と、土埃と、雨と、清潔な石鹸、そして春。雪解けの、うららかな季節の下でいつか目を細めていた彼の姿を思い出す。走馬灯だろうか。とても色あざやかで、完璧な。
「キスをください」
言葉は雨に攫われた。私の唇がかさかさになっているのが、自分でもわかる。同じくらい掠れた声は冬を越せずに枯れていく花の色だったし、踏まれてつぶれる落ち葉のようにボロボロだった。
でも兵長が。
「……、」
私の幕をおろすみたいに、そっとくちづけてくれるから、息を呑む。
意識がほどけていく。感覚の総てが甘くとろける。脱力すれば、まぶたの上に手のひらがかぶった。最中くらい目をつぶったらどうだ、とでも言うように、兵長は私のまぶたを優しく閉じる。瞳のなかに春が映る。私たちの、出逢った季節。
「……よく頑張ったな、ナマエ」
やわらかいキスのなかで囁かれ、呼吸をやめた。唇におぼえるぬくもりは、最期の一瞬まで残る私の幸福みたいだった。