20240124







 お昼過ぎの会議室はどこか気怠い雰囲気がある。ちょうどいい温度のお湯に浸かっているような、太陽の下から取り込んだばかりのシーツにくるまっているようなあたたかさが、昼食後の身体には毒だった。エルヴィン団長とミケさんでさえ、普段よりもずっと落ち着いたトーンで議論を交わしている。
 真昼間のぬるい風が吹く。卓上に置いていた資料が攫われそうになり、慌てて手を乗っけると、私の正面に座る兵長も同じようにして押さえるのが見えた。悪戯な風がおさまれば、彼はぱらぱらと資料をめくる。そうしてすぐにまた伏せた。真横の窓から入り込む陽射しは強い。だるそうに腕を組み、イスに深くもたれて外を眺め始めた兵長の頬に、まつげの影が伸びた。
 私も資料を再確認する。今夜開かれる夜会についての仔細には、参加者の名前までもが並んでいる。そのうちのひとつ、公爵家の家名に目をとめた。資料によれば、公爵閣下は愛する妻と、一人娘を連れだってくるらしい。西を束ねる権力者だ。今回も出席するだろうとは、予想していたけれど。
 耳の奥でワルツが響く。三拍子に合わせて大広間ボールルームの上を舞う、公爵令嬢の姿も脳裏にちらついた。花びらが開くみたいに広がるドレスの裾と、しなやかに反る背中を支えるリヴァイ兵長の手と。そのまま踊りを途中で放り出し、どこかへ消えていったふたりの後ろ姿も。過去に出席した舞踏会の光景。
 切り替えようとかぶりを振れば、あの日の演奏はぴたりとやんだ。資料を読み返すのもやめて、顔を上げる。
 と、兵長と目が合った。変にうろたえてしまい、気まずくてすぐに逸らす。
 あからさまだったかもしれない。だけど瞳はおしゃべりだから。ちょっとでも見つめあったら、私の感情を読まれてしまう気がした。
 夜会になんか行かないでほしい。令嬢の機嫌をとるための燕尾服なんか着ないでほしい。彼女の好意に気づいてるくせに、突き放すこともせず、完璧なエスコートなんかしないでほしい。
 そんな、醜さだけを食べて育ったような嫉妬心を、気取られたくなかった。


「オイ」

 会議が終わり、席を立ったところで兵長に呼び留められる。団長とミケさんはもういない。ふたりきりの空間に気まずさを拭いきれないまま、向かい合う。

「なんでしょうか」
「お前、明日非番だったな」
「はい」
「予定は」

 とくに、と首を振り、鍛錬場にこもるつもりだと伝えた。明日もし人手が必要だと言うのであれば、私が請け負うという意思表示、だったのだけど。

「なら、今夜は俺の部屋に来い」
「え……」

 思いもよらないお誘いに、間の抜けた声が出た。

「今日の夜ですか」
「ああ」
「でも、兵長はシーナへ行かれるんですよね」
「泊まりがけの任務じゃない」
「部屋で帰りを待ってろ、ってことですか?」
「そうだ。……まあ、起きてる必要はねえが」

 今回の夜会に、私は参加しない。だから兵長の私室でお留守番することはもちろんできる。それに、ふたりで過ごせる時間は貴重だ。いつもの私だったらここできっと、わかりましたと即答していたはず。
 けれどいまは、素直にうなずけなかった。

「……嫌です」

 自分のつま先を見下ろす。貴族の娘が履くような、磨きあげられたパンプスではなく、細かい傷だらけの戦闘靴。

「待っていたくない。帰ってくるかどうかも、わからないのに」
「どういう意味だ」

 口ごもれば名前を呼ばれた。それでも顔を上げられずにいると、視界の端で兵長の足が動く。数歩分、ぐんと距離が近づいた。兵士同士のというよりも、恋人同士特有の、無遠慮な距離感だった。

「ナマエ。俺を見ろ」

 命令みたいな口調。目線だけを、持ち上げる。

「なあ、さっきからなにを考えてやがる。お前は会議中も様子がおかしかったよな」

 言いたいことがあるなら言え。促した兵長は、そのあと沈黙を貫いた。ゆるく溶けそうな午後の時間、部屋は静かで、紙束が風に煽られる音がときおり聞こえるだけ。
 結局、先に白旗をあげたのは私のほうだった。観念して、ためらいつつも口を開く。

「任務内容に納得がいきません」
「どこが引っかかる。前回も前々回も、似たような内容だったが」
「先程の資料の、参加者名簿に……シュターフェン家の名前がありました。マルゴットお嬢様の名も」
「……ああ、」

 すべてを理解したと、言外に匂わせる相槌。

「彼女がひとこと言うだけで、彼女を溺愛している両親は調査兵団に手を貸すでしょう。うまくいけば支持母体に取り込める。そしたら、大きな後ろ盾ができる。それは理解しています。でも……」
「そこまで持っていくために、俺がそいつと一晩を共にするかもしれない、と?」
「……はい」
「そんなに信用ねえか、俺は」
「そうじゃない、けど」

 ふいに、情けなさが湧いてあふれた。
 いまの私は、親に駄々をこねる子供みたいだ。どうしてこうなってしまうんだろう。兵士長である彼の隣に立つのなら、感情任せのわがままなんてけっして言ってはいけない、と、覚悟を決めたはずなのに。
 リヴァイ兵長と関わると、ほかのだれといるときよりも感情が乱れて、苦しかった。

「私……ごめんなさい。兵長を困らせたいわけじゃないんです」
「わかってる」
「信用してないわけでもなくて。これは、その。……ただの、嫉妬です」

 白状しながらも、再びうつむきかけたとき。

「嫉妬、な……」

 無骨な手、兵長の指の背が、私の頬を撫でた。手つきは信じられないくらい優しい。たったそれだけで、あっさり満たされそうになってしまうほど。

「お前は妬かねえ女だと思ってたんだが。違ったらしい」
「がっかりしましたか」

 私は本気で心配してつぶやいたというのに、兵長は虚を突かれたような顔をみせたあとでハッと短く笑った。吐息みたいな笑い声は、一瞬で消えた。

「……するはずねえだろ」
「んむ」

 いきなり両頬をわし掴みにされて、唇がすぼまる。やめてくださいと首を振ろうとしたものの、その前に指は耳たぶへ移動した。つままれて少しくすぐったい。

「夜会に出ねえ、っつうのはいまさら無理な話だ。だが、お前を不安にさせるようなことはしない」

 約束する、と。兵長は淀みなく言ってのけた。

「それから……必ず帰る。夜のうちに」

 陽がまた射し込む。光の加減でますます色素の薄れたブルーグレイを見つめると、調整日の朝を思い出した。狭いベッドのなか、ふたりでまどろむ束の間のひととき。兵長の私室の窓は、ベッドの傍にある。その窓からもれる朝焼けが、兵長を照らすさまを見るのが、私はとても好きだった。

「……じゃあ、今夜。帰ってきたら、たくさん甘やかしてくださいね」

 かすかに目を細めた兵長は、まとう雰囲気をも和らげる。ほとんど表情を変えない彼の相好が崩れる瞬間。

「そうだな」

 軽い力で下唇をなぞられて、くちづけに瞼を閉じた。キスの合間にも、兵長の指先は私の顎を、首筋を、うなじを伝う。だめになるまで焦らされた、いつかの深夜二時みたいな触れ方だった。

「……いい子で待ってろ」

 鼻先をぶつけながら囁く声は甘く、水分を孕んでいる。指は最後、髪の毛を梳くようにして離れていった。
 会議室をあとにする。前を行く背中にはすでに、上官めいた精悍さがある。私も努めて兵士の様相を作ってみるけれど、あがった体温だけがどうしようもない。胸のもやもやは晴れたのに。いまはただ、熱の吹きだまりになったような身体を持て余した。





午後二時





ALICE+