16歳エレン/微原作沿い/エレミカ前提/20220621
マーレはパラディと同じ四季の国だと聞いたけれど、異国で待ち受けていたのはナマエの知らない春だった。
昼下がりはまるで安寧を模したように暖かいし、港町であるためなのか空気もわずかに湿っている。うなじやこめかみに張りつく髪が鬱陶しくて、潮のにおいも強かった。パラディの乾いた風と土埃が恋しい。
敵国への潜入とくれば、肩がこるような雰囲気ももちろん漂う。しかし用意された屋敷が隠れ家にしては広く、清潔で、館内ではのんきな旅行者みたいにくつろいでいられた。各自に個室が宛てがわれているのも大きな要因だろう。
それでも普段から集団生活を送っているせいか、ひとりで越える夜は心許なく、朝になると人の集まる応接間へ足が向いた。
今日もだだっ広い一室の窓辺に腰掛け、本を読んでいる。中身が御伽噺だとはいえ、壁の外に伝わるものだ。胸の高鳴りはおさまらない。
そうして夢中になっていると、ふいにページが翳り、文字の羅列が濃くなった。いきなり現実へ引き戻された意識はふわふわとしている。ナマエだけがまだ、御伽の国にいるようだった。感情が無防備で、夢から醒めた直後と似ている。
翳りの正体を見破るべく、後ろを振り仰げばエレンがそこに。立派な格子窓の傍に立ち、外を眺めている。目上に手のひらをかざして。眩しいのだろう。
「……どこかの国に、寂しさを養分にして咲く花があるんだって」
いまのいままで読んでいた内容を一部切り取って伝えると、エレンはこちらを見ることもなく、「へえ」と言った。心底興味が無い、そんな声だった。
はあ? なんだよそれ、ガキみてえなもん読んでんなよ、以前のエレンならそう言ったはずだ。騒がしくて、明るくて、ぎらぎらと瞳を燃やす少年だったエレンなら。ジャンと喧嘩ばかりしていたころのエレンなら──きっと。
だけどあの溌剌とした少年は、やっぱりいつの間にか死んでしまったのだろう。いまは色を失くした重たい目で、常にどこか、遠くを見ている。
「だれかが寂しい、寂しいって思うたび、言うたびに成長して、綺麗に咲き誇るんだって」
ナマエは物語の続きを口にした。エレンは今度、なにも答えなかった。ただひたすらに外を眺め続けるだけ。
ナマエも横顔を見上げ続けている。いつもどおりに一方通行な視線のなか、エレンの輪郭は春にぼやけた。
と、突然、エレンが一歩を踏み出す。そして指先をガラスに張りつけ、おもちゃ屋かお菓子屋にでも連れてこられた子供みたいに心を揺るがせた。彼の意識の先にあるものの正体は、確かめるまでもなくわかった。わかっていながらも目をやれば、太陽の下を歩くミカサを捉える。
ナマエは傷つかない。
もう、いまさら、こんなことでいちいち傷ついたりはしない。慣れたのではなくて、諦めたのだ。
エレンは昔からミカサばかりを見つめている。ミカサが関わるほどに、彼女の知らぬところで静かに感情を震わせる。そのことに気づけたのは、ナマエがエレンばかりを見つめてきたせいだ。
本を閉じる。さっきまであんなに没頭していられたのに、もう物語が頭に入ってくるとは思えなかった。つまらなそうな顔を作って、頬杖をつき、外を眺める。
春の陽射しは、とろけるはちみつみたいな色だった。エレンの手もナマエの手も届かない、甘い蜜で完璧にコーティングされた庭にミカサはいる。黄色の可愛らしい花を束にして持ち、あとから追いつくように隣へ並んだキヨミ様と、あざやかに笑いながら。
抱えた花束はもしかしたら、贈り物かもしれなかった。この間誕生日を迎えた、エレンへの。
「エレン」
彼の袖を弱く引く。ナマエたちのいつもの合図。ミカサを映していた瞳が急速に鎮まり、やっと、ナマエを見た。一秒前とは別人のように無気力なまなざし。
「……いまからか」
「うん」
「時間がない」
「出発は二時間後だよ」
エレンが黙り込む。ナマエたちにはもう少ししたら、国際討論会を視察しに行くという予定があった。
「……来いよ」
しばらく考えたあとでつぶやき、エレンは庭に背を向けた。ナマエも立ち上がる。本は、テーブルへ置いたまま。
追う前に一度振り向くと、窓の奥に艶やかな黒髪がまだ見えた。叫び出したいような苦しさに、襲われた。
到着した居室は酷く暗い。ナマエの部屋と同じ間取りだというのに。カーテンが閉めきられているせいに違いない、そう、思い込む。
「──……」
名前を呼ばれた気がした。でも、はっきりとは聞き取れなかった。
腕を掴まれ、どちらともなくベッドに沈む。どこまでも、どこまでも沈んで、二度とは浮き上がれないように思う。
恐い。
恐い、初めて海を見た瞬間の記憶がよみがえる。
あのとき、波の音やはしゃぎ声、海鳥の鳴き声や楽しげな笑い声に囲まれて立ち竦んだナマエは、エレンに縋った。彼もまた、海を喜んでいるふうではなかったからだ。
その日の夜、エレンと初めて寝た。どうしてミカサじゃなくて私なの、とは、聞けなかった。それからずっと、ナマエたちは複雑に絡まっている。
唇が重なる。エレンの唇は冷えている。キスであたたまるものなど、ふたりの間にはなにひとつとしてない。
骨ばった指に肌を辿られていく。不思議なことに、ナマエはいつも嬌声をあげられなかった。どれほど快楽を感じても、どれほどエレンを感じても。
まぶたを閉じる。裏側で黄色い花が咲き誇る。眩しすぎる陽射しのもとで笑うミカサが、マフラーが、彼女の頬の傷痕が、網膜を焼くようなスピードで鮮烈にまたたいた。
あの傷を。エレンが彼女に残した、一生消えないであろうあの頬の傷痕を、ナマエはずいぶん前から羨んでいる。
「ねえ、エレン」
あらわになった肌を合わせ、抱きしめ合いながら問いかけた。
「私のこと、裏切らない?」
「……裏切らない」
「絶対?」
「ああ」
「……信じてる」
内側を割りひらかれる。エレンはナマエを侵食する。ナマエの体は毎回、エレンに触れられたところから順に腐った。けっして触れられることのない、心のみを残して。
裏切らないという嘘、信じているという嘘、ナマエがエレンへ抱く想い。それらが生み出す膨大な寂しさだけで、ナマエたちは成り立っている。