Act.3
一人最果てを探す夜
スーパーへ行くでもなく、レンタルショップへ行くでもなく、ナマエとただ夜道を歩いていた。今宵も薄曇りで、見上げればてんてんと続く街灯だけが白い。
なかなか遠くまで来た。いつもならとっくに引き返しているだろう距離を、長い時間を二人で通り過ぎていく。暇潰しというには回数の増えすぎた散歩。このごろ、リヴァイも悪くないと思い始めていた。
「なにか借りて帰りませんか?」
「……今からか」
「今からです」
「……」
仕方なく方向転換する。自分のものではないように、足は自然と動いた。
すっかり慣れてしまった大通り。クラクションや喧噪の間を抜けていくと、途中、ドラッグストアを見つけたナマエが店を指差すので、またもや渋々ついていく。
ぎゅうぎゅうに陳列されている品物たちを横目に、目的の棚へ向かった。尖った店内ミュージックが鼓膜を刺す。ときおり止んで、とってつけたふうな商品紹介が流れる。
なぜこうも騒がしいのだろう。リヴァイは鼻にしわを寄せた。目や耳から入る情報量が多すぎて、脳がダメージを受けている気がする。求める眩しさとはかけ離れた光のなか、ツルツルのホワイトタイルを踏み鳴らす。
ナマエは、リヴァイと違って戸惑うこともせずにまったく浮かれた様子で進んでいった。スーパーでもそうだ。自分で造り上げたミニチュアハウスで遊ぶように、どこになにがあるかすべて把握しているように、迷わないで進む。つまり、買い物は任せたほうが早い。
しばらくすると小さな背中はハンドクリームのコーナーでしゃがみ、試供品の香りを嗅ぎ始めた。バラ、シトラス、ラベンダー、シャボン。次々鼻に寄せる仕草を、リヴァイは真上から見下ろす。
「んな一気に嗅いでちゃ混ざっちまうだろ」
「大丈夫ですよ! リヴァイさんも嗅いでみてください」
「遠慮す……」
「どれがいいですか?」
言葉を遮るように伸ばされた手、持っているのはいくつかのクリーム。一瞬悩んだものの、組んでいた腕をほどき、リヴァイもそこにしゃがんだ。
ひとつひとつを受け取り、すう、と匂いのついた空気を吸ってみる。が、どれも好みではなかった。本音をいえば無香料の品を突きつけたい。けれど使うのはナマエである。
どれがより合うかと考えた結果、フラワーの香りがついたものを渡した。身体の奥、芯まで浸透するように甘い匂い。眩暈をおぼえそうになる、いつかは枯れる花の匂いだ。
会計時、レジにてナマエが自分の財布を出した。外に行かせないエルヴィンが小遣いを与えるとは思えず、聞けばずっと遣わないでとっておいた自身の金だという。財布は預けっぱなしで行方不明だったが、ちょうど昨日、掃除中に発掘したのだと。
「どうぞ!」
ドラッグストアをあとにして、大型のレンタルショップを目指そうとしたとき。すぐ横の、ビルとビルの合間で「ラッピングもないですけど……」とナマエがたった今購入したものを差し出してくる。リヴァイはついポカンとした表情で足を止め、押されるがままに受け取ってしまった。
「俺に」
「はい」
「自分のじゃ、ねえのか」
「リヴァイさん、手荒れが酷いから。自分じゃきっと買わないだろうし」
ナマエの目線が下がっていき、リヴァイの指先を捉えた。思わずぴくりと反応し、握り締めたくなる。隠したく、なった。数え切れないほどに命を屠り、恨まれるべき指先。
リヴァイもわずかにうつむいて、手のひらを上へ向け広げてみる。ところどころが切れ、皮もむけていた。でも、なにもしなければ明日には治るだろう。ナマエみたいに傷跡のケアが必要なわけではない。吸血鬼は傷の完治に何日もかかったりしない。今はただ、毎日毎日繰り返し傷を重ねてしまっているだけだ。
こんなにも穢れていて、血まみれで、罪は洗っても、洗っても洗っても落ちない。
「……汚くないですよ。リヴァイさんは」
喧騒が失せた。
ビルの隙間、大人二人ではすれ違えないくらい狭い通路が奥に続く。壁にはケーブルが伝っている。やたらと青く、丸いゴミ箱が無造作に置いてあった。蓋は開いていて、破けた風船みたいな袋が張りついたまま。縦長の空は、愛想にも綺麗とは言えない。
黒猫が一匹、ナマエの後ろでリヴァイを見ている。当然喋ることなどできない野良猫。金の瞳は、さながら月だ。
ナマエ以外、そういったものすべてが今は、リヴァイの世界の外にある。
“汚ぇだろ”
いつだったか、手洗いを止められたときそう答えた。汚いと感じているのは手だけではなかった。自分自身だと示したつもりはなかったが、ナマエは気づいていたのだろうか。
「……これはもらっておいてやる」
「そうしてください」
踵を返し、目的地を目指す。
「ナマエ」
雑踏に囲まれ、リヴァイは隣を見た。ナマエはうるさい周囲に邪魔されないよう、一生懸命耳を傾けている。
「ありがとうな」
優しい微笑みで応える彼女はもう、味覚の違いを――エルヴィンと自分との差を、受け容れたのだろうか。このあいだのことなんてまるでなかったかのような夜。
*
レンタルショップへ寄った帰り、会話のタネは意外とあった。
エルヴィンがトレーダーをしていて、だったらリヴァイはどんな仕事をしているのかとか、エルヴィンとの出逢いはとか。でもまともに答えられたのなんてわずかなもの。
常時身分を偽装し、死人から金や情報を奪って生きていること。死体を巧く棄てる方法を知っていること。
アンダーグラウンドと呼ばれる地下の地下、太陽なんてひと射しもしないところで生まれ、育ったこと。そこで娼婦をしていた母を殺したのは、混血者の男だったらしいこと。だからジークを受け容れ難かったこと。
夜だけ地上に出てはヒトを喰らい、死んだように過ごしているうちエルヴィンと知り合って完全に地下街を出たこと。
それらのうち、ナマエに言える内容は少ない。
ちゃんと話せたことといえば、ヴァンパイアの外見はある一定の年齢に達すれば変化しなくなるということや、その年齢もそれぞれ違うこと、くらいだ。でも気まずさなどはない。ナマエも深くは追求してこなかった。
「お前は、親に会いたくなったりしねえのか」
会話に隙間が生まれ、ふと尋ねる。ううんと思考を働かせるように唸り、人気のない道端でナマエが立ち止まった。
リヴァイも同じくして足元を眺める。近くに学校があるのかもしれない、アスファルトに引かれた白線の内側が緑色だ。こんな都心に、と思う。こんなにごちゃごちゃしている場所で、いったいなにを育めるというのだろう。
「会いたくなる夜もありました」自分の言葉を一音一音噛み締めるみたく、ナマエがおもむろに歩き出す。「でも、私はエルヴィンさんを選んだから」
家族や友人より、エルヴィンを。それを人は覚悟と称するのか、過ちと嘆くのか。
「一緒にいるために一度手離したものをまた求めるくらいなら、一緒にいる資格なんてないんです」
彼らはずっとは傍にいられない。赦されているのは、傍にいようと足掻くことだけ。それがどれほど束の間でも。
初めて二人で歩いた夜と似た息苦しさが胸に充満していく。リヴァイの永い人生において、ナマエは明確な違和感だ。近くに寄るほど眩しくて、遠ざけたいのに、近づきたくてたまらなくなる。と、感じた瞬間。
「リヴァイさん……?」
ナマエの手首をきつく掴んでいた。傷のない白肌から、脈動が伝わってくる。
「ナマエ、お前はそんなに」
そんなに、エルヴィンのことが好きか。
喉の奥が引き攣れるようだった。声にならない。彼女がなんと答えるのか、リヴァイには分かる。なのにそれを聞いてしまうのが恐い。――どうして。
「……いや。なんでもない」
手を離す。疑問を浮かべつつもうなずくナマエと、マンションまでを辿った。リヴァイを先導する後ろ姿は都会の夜みたいに眩しい。
――こいつといると。
ナマエといると、自分の汚さが浮き彫りになっていく。エルヴィンの傍にいさせてやるのが一番だと分かっている、本人もそれを望んでいる、エルヴィンも、
でも連れていきたくなる。
真っ白なナマエを、染めたい。
ふと立ち尽くし、ゆっくりまばたきした。たった二人きりであまりに遠くまで歩いてきてしまったと思った。もう少しで帰り道を見失っていたかもしれないほど。ナマエには、言えないことが多すぎるのに。
体内を巣食う違和感は膨れていく一方で、排気ガスの街は息苦しい。リヴァイはナマエから目を逸らし、再び歩き出した。ドラッグストアの袋が擦れる乾いた音だけが、耳に残った。← →
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