つきあってるふたり/2024.07.09
ショートケーキに乗っかるいちごみたいな男とつきあっている。とびきり特別で甘い男だ、とナマエは思うのだけど、
殺連の同僚などは彼のことを軽薄とかうさんくさいとか言ってのけたりする。神々廻なんかはしょーもない男だと。
それでもナマエにとっては彼、南雲がご褒美にも似た男であることに変わりないので、今日一日を完璧にするつもりでいた。七月九日は年に一度の、南雲の誕生日だから。
予約していたケーキを受け取り、冷えていたパティスリーを出ると、大きな入道雲がさっきより夏の輪郭を濃くしていた。乱暴な気温が肌に痛いが、青の深い快晴は申しぶんない。ナマエは家路を急ぐ。
陽射しが乱反射し、景色がきらきらするように感じる。白い光のつぶがあちこちではじけている。コントラストの強い昼を歩きながら、今日ができる限り明るければいいと思った。こんなふうにずっとまぶしければいい、天気以外のなにもかもにだって恵まれていればいいと。大好きなあの人が、今日ぐらいは血しぶきじゃなくて陽光じみた祝福にまみれてくれたなら、ナマエにとってそれ以上はない。
はりきってキッチンに立つのはひさしぶりだ。山ほどある食材を手早く調理していく。
ナマエ同様殺連員で、なおかつORDERに籍を置く南雲はつねづね忙しく、いまも出張先にいる。九日中に会えるかどうかもいまだにわからないままだった。会えるよ、帰れるよ、のひとことを聞きたくてもスマホは鳴ってはくれないし、会いたい、早く帰ってきて、とナマエが鳴らして求めることもない。彼との約束はいつだって確約できずに存在する。にもかかわらず雑貨屋や花屋、スーパー、伊勢丹などをめぐり、必要な物々をすべて用意し、こうしてキッチンで動きまわるのはいちおう準備しておこうとか念の為だとかの確固たる決意があるからというよりも、ほとんどが祈りからだった。南雲が帰ってくるようにという祈り。生きて、ちゃんと。
和洋折衷、とりたてて規則正しくもない品々をどんどん作っていく。本来ならば、どこか特別なお店につれていってお祝いしたかったのだけど。およそ数ヶ月前、人気レストランの予約戦争にうち勝つため早々と南雲へリサーチをかければ、誕生日なにが食べたい? とたずねたナマエに彼は。
「ナマエちゃんが作ったごはん」
即答。当時の南雲の声が、ふわふわと海馬の合間を縫う。
「九日はどこにも出ないで、ナマエちゃんのおうちでゆっくりしたいな〜」
次の日まで、……だめ?
もちろんだめなわけがなく。だから決めている、今夜は会えたらとっておきの料理をふるまって、ふたりでケーキにかぶりついて。夜通し話して、一緒にベッドへもぐって。
──プレゼントも買ってあるし。あとはかわいい下着も、つけたし……。
ナマエはうつむき加減に、自分の身体を見下ろした。
かわいい下着。ひらひらでえっちで機能性ゼロのやつだ。南雲が気に入ってくれるといいな、と、あの指ではがされることを期待する。同時に、すでに自分のお気に入りになっているので彼にウケなくても特段問題ないとも考えていた。ナマエは南雲を大事に想うが、だからといって人生におけるすべての主軸を南雲に置くことはできないし、しない。おそらく彼のほうも同様で。それは卑怯なくらいに寂しい事実だけれど、互いに自立してる大人同士、しょうがないことでもある。
彼は人間でいちごではない。だからナマエが飲みこんでしまうことも、もちろんできない。南雲と完全にひとつになってしまえるはずなんて未来永劫なかった。これはある種、飢餓のような恋だ。そしてひどく格別な。
できあがった料理をいったん片しておき、食器類の確認をし、選んだ七月の花たちをテーブルに飾ったところでインターフォンが鳴った。エントランスではなく玄関の。スマホを確認するが連絡はない、万一の可能性を危惧してドアスコープを覗くと、見慣れた長髪の男がいたのでナマエはドアを開けた。彼はこの階まで合鍵を使って上がってきたくせに、その鍵をもう、どこかへしまいこんでいる。いつもみたいに。
「ん」
ナマエを見るなり、お決まりといった感じで両腕をひろげてみせたのはたしかに南雲本人だった。まだ家のなかに入ってもない、内廊下にいるのにとやや呆れた心地をしながらも、ナマエも同じく腕をひろげる。彼はようやく一歩を踏み出し、夏に火照った体温をさせてナマエの胸もとへとやってきた。ぴったりとくっついてくる南雲はふわふわの大型犬みたいでもあるし、これみよがしに懐いた猫みたいでもあった。
「ただいま、ナマエちゃん」
「おかえりなさい」
南雲の、出迎えてもらうのって嬉しい〜とかなんとか言ってせっかく渡した合鍵を最後のドアでは絶対に使わないところを、とても子供じみていると感じる。でもすごくかわいい。ナマエは満ち足りた。満ち足りた瞬間怖くなって、もう一度おかえりなさいと伝えた。次の任務ではどちらかが死ぬかも知れない。これは当然の挨拶ではない、今回が最後のやりとりかもしれないと、いたく理解している。うん、ただいま。南雲も二度目を繰り返す。最後かもしれないと言外に伝えるようなかたくなさを、やっぱり彼も持ち合わせている気がした。
「南雲くん。して」
か細くキスをねだると、頭上のほうからわずかに笑う気配がした。南雲が後ろ手にドアロックを閉める。器用だなあ、と、彼のくちづけにしびれた脳みそで感心する。
重なる唇に、ナマエはすぐさま服を脱いでしまいたくなった。丹精込めて準備したものぜんぶ後回しにして、南雲にかきまぜられたい。空っぽの胎内を。お腹の奥までを、彼でいっぱいにしたい。はしたなくもそう思うのは、南雲の前ではとても自然なことだ。あるがままの成り行き。
「僕はね〜、待てできるよ、いい子だから」
「ん、ぅ、」
「でもナマエちゃんは?」
弾力のある唇が、離れては近づき、ぶつかって、また離れていく。南雲はキスのさなかで小さくしゃべる。
「もう我慢できなくなっちゃったのかなあ。……ほら、べろ出して、べえ、って、そう」
「んんッ、ふ、ぁ」
「あは。べろ舐められただけでとろとろになってるの、かわいー……。でも」
「んむっ」
はふはふと息を乱していれば、大きな手で両頬をはさむようにされ、ナマエの口がきゅっとすぼまった。タコさんみた〜い! などと南雲はにこにこ喜んでみせる。
「まだだよ〜。僕も本当はすぐベッド行きたいけど。行っちゃったらたぶん、明日の夜まで離してあげられない」
冗談とも本気ともとれる宣言に、ナマエは抜けかけた力を入れ直した。その腰に逞しい腕がまわる。支えてもらうようでもあり、くっつかれるようでもありながらふたりで廊下を行く。身体にまきつく腕の、雑にまくってある袖から伸びる素肌のいたるところに、
精緻でやんちゃなタトゥーが見え隠れしている。
ごちそうさまでした、とふたりで手をそろえた。たくさん作った手料理を、南雲は何度もおかわりした末に完食した。もう食べられないと箸を置いた彼女の前で。
「ねえ」
クリアのガラスボトルを互いのティーカップに傾ける。なかには水出ししておいた紅茶が入っている。
「ほんとにうちでよかったの?」
五つ星ホテルのフレンチとかじゃなくて。聞けば、彼は空いた皿を見やりうなずいた。お誕生日っていえば、と話しはじめる。
「昔から疲れるだけの日だったんだよね」
「そうなの?」
「うん。ウチに親族が集まって……上っ面の祝言、下心ミエミエの挨拶、おべんちゃらに応えるための一日だった。子供のころも、同年代の子と遊ぶのさえだめだったし。ひざを崩さずにいなきゃいけなくて。なんていうか見世物状態」
やんなっちゃうでしょ。南雲がヤレヤレと頭を振った。
「料理も自分の好きなものが出てくるわけじゃない。なにから食べるか、ひとくちぶんはどれくらいか、こまかいルールを守りながら食事して……だからお誕生日が楽しいと思ったこと、一回もなかったな」
納得がいき、ナマエもうなずく。南雲が隠密名家の出であることは過去に聞いていた。そのうえ一家の跡取り息子だというのだから、想像するまでもなく息の詰まるような幼少期だったはず。狭い箱に入れられたまま大切に──遠巻きに、一線をひいて扱われていた男の子をぼんやり想像する。
「ずっと憧れてた」
卓上に伏せられていたまつげが持ちあがり、ナマエにまんまるの黒目が向いた。
「こうやってゆっくりするの。JCCにいたころも、坂本くんとかが祝ってくれるの嬉しかったな〜祝い方がめちゃくちゃ雑で」
うすく微笑むと、同じような笑顔が返ってくる。
「そっか。南雲くんって坂本さんと同級生なんだったっけ」
坂本太郎。元・ORDER、伝説の殺し屋。JCC卒のナマエにとっては直接の先輩にもあたる。二回だけ、殺連本部で顔を合わせたことがあるが、丸いレンズの眼鏡が特徴的な細身の男だった。
「そういえば坂本くん、こないだ子供が生まれたんだって」
「え?! 坂本さん結婚してたんだ」
「あれ? 知らなかった?」
ナマエは首を振る。坂本とは、そこまでの親交があったわけではない。同業者としての憧憬はあったものの。
「いいよね〜、赤ちゃん」
南雲が片手で頬杖をついた。自然と傾いた頭、少しだけ押し上げられたほっぺた。逆の手ではカップの取っ手をつまんでいる。ナマエもティーカップを持って、つめたい紅茶をひとくち。
「南雲くんが子供好きなの、ちょっと意外かも」
「なにそれー!」
反応は不満げだった。わがままな彼女みたいに口先を尖らせるさまに、どうしたって目尻が下がってしまう。
「僕、小さい子の面倒見るの得意なんだから」
ドヤァ……としている彼に相槌を打ちつつ、ナマエも両手で頬杖をつく。おもわずこぼれた笑みはいまなお健在だ。図体のでかい、全身タトゥーだらけの男が幼い子をあやしている絵面は想像上でもなんだか愉快だし、あったかかったから。
「小さい子といる南雲くん見てみたいなあ」
「僕も見たい」
「……?」
「僕が、僕とナマエちゃんの赤ちゃんを子守りしてるとこ」
「……へ?!」
「えー、なんかびっくりしすぎじゃない? ありえない未来みたいで傷つく〜」
暑くて溶けそ〜、と嘆くときくらいの軽さで文句を垂れる南雲の一方、ナマエは固まっていた。全身を七月の最高気温以上に熱くさせて。僕とナマエちゃんの、とはっきり言ってのけた彼の声色が、だって夏の雨で濡れているみたいだった。湿っていた、肌や鼓膜がぞくぞくするほど。
「あ、」
正面の顔が愉しげに歪む。
「ナマエちゃん赤くなってる。なに考えたのー?」
ぱちぱちとまばたきをし、数秒沈黙し。ナマエは食卓を立った。片付けちゃうね、と言えば南雲も立ちあがる。座ってていいよと静止するけれど彼は聞く耳を持たない。今日の主役は南雲くんなんだよとつけくわえても。仕方なく、ふたりでキッチンへ向かう。
「ナマエちゃん」
「……」
「ナマエ〜」
「…………」
シンクに皿を置き、水をためている最中、後ろからがっちりと抱きすくめられた。つむじの上にあごを乗せられるのも、もはや日常茶飯事で。
「怒った? からかってごめんね。赤ちゃんって言われてえっちなこと想像するナマエちゃん、かわいかったんだもん」
「……動きづらい、離して」
「笑。ヤでーす!」
余計力をこめられて、ぐう、と呻き声がもれた。背後からは笑い声がした。鮮明でほがらかでくっきりとしたものだ。ナマエの好きな人の。でもいまはむかつく、頬も身体も熱いまんまだし。いまのナマエはサイコロと似ている。南雲の手のひらで転がされ、弄ばれるサイコロ。
「ナマエちゃんって料理上手だよね」
つむじの上のあごがかくかく動いた。悪びれるそぶりが一切ない南雲は、頭をどける気も、離してくれる気もとりあえずないらしかった。
「普通だよ。レシピ見て作ってるから失敗しないだけで」
「そう? いままで食べてきたものとは段違いだけど。僕への愛情がこもってるからかな……」
「自分で言う?」
「間違ってないでしょ」
「……間違ってはない」
自白すれば、ほらぁ、と言った南雲のせいで頭頂部の髪がうごめく。
「僕もここまでできたらなー。愛はもう有り余ってるから」
余ってるの? とナマエはくすくす肩を揺らした。今度一緒になにか作る? 聞きながら後ろをふり仰ぐ。
「なにか?」
「南雲くんの好きなメニューとか」
「僕の好きな、ね」
南雲の好きなもの──甘いものかも、とナマエはアタリをつけた。彼はコーヒーなども、砂糖がないならないで無糖のまま飲むけれど、ガムシロップが山積みになっていれば何個かは垂らしたりするのだった。
「ナマエちゃんかな」
「私がなに?」
「ナマエちゃんが食べたーい♡ったぁ!!」
南雲の腕の輪っかのなかで、きちんと方向転換したのち向かい合う彼をぽか、と殴った。めいっぱい手ひじを伸ばして。口をひらけば嘘か冗談ばかりのたまう男の頭に、たんこぶがこさえられる。だけど南雲はちょっともダメージを喰らってない口ぶりで、いたぁ〜いと泣き真似をしてみせるだけ。シクシク、シクシク。ナマエは呆れ心地でじっとり睨む。
「だめなの?」
視線の先、デカ男はシクシクムーブを即終わらせ、面差しを変えた。まぶしい景色でも見るように目をすがめて微笑する。
「ナマエのこと欲しがっちゃ」
「あ、ちょ……っと」
腰は依然として抱かれていた。抱く力はすでに緩まり、腰骨のあたりに二本の腕がひっかかっているのみだが、股下に長い足がさしこまれてしまえば南雲からうまく逃げられなくなる。
「っ、」
うなだれるみたいに頭を下ろした南雲の唇が、ナマエのこめかみに、耳輪に触れた。
「ナマエちゃんのごはんいっぱい食べたけど」
「なぐもく、」
「まだ足りないかも〜……」
食べていい……? 耳にこすれる口先が、鼓膜をじかに震わせる。おへその下、下腹部のなかがきゅんきゅん収縮するのがわかった。耳孔へ、水音とともに舌をねじこまれ、ナマエは全身に鳥肌をたたせた。もちろん不快感のせいではなく。
「ん〜……ナマエの味、」
ぢゅぽ、と出し入れされると耐えられなくなってしまい吐息をこぼした。脱力していく全身で、もはや南雲に縋って立つしかない。
「ていうかナマエちゃん、シャワー浴びたでしょ」
「ん、あ」
れろ、と耳たぶを舐められて、食まれて。腰から服のなかに手が入りこむ。背中を指先で辿られ、仰け反るようになる。
「ねえなんで入っちゃったの? 僕がくるってわかってたのに。一緒に入りたかったな〜、悲しーな〜」
「あ、ぁ……待っ、て」
ナマエは抵抗をみせた。ここでストップをかけるのは、自分自身との戦いでもあった。けれどまだ。まだ、南雲へ出したいものはある。プレゼントとか、ケーキだとか。
「やあだ」
とはいっても、あちこちへのくちづけはやまない。首筋に吸いつかれたり、背骨のかたちをなぞられたり。脇腹を撫でられて、ブラの裾らへんをひっかかれて、南雲を見上げれば、熟れた果実みたいにどろどろのキスが降る。
「ん、ん……ふ、」
「ナマエ、目ぇ開けて、僕のこと見て」
「……、」
「ウンウン。いい子」
喉の奥までを舐めしゃぶるようなくちづけに眩暈をおぼえた。食べていい? と聞いてきた彼に、文字どおり捕食されているみたいだ。飢えた男に喰い尽くされていく。かわいい、かわいい、ナマエ、すきだよ、南雲がキスの合間につぶやく。唇のはしから唾液が伝うころ、がくんとひざが折れた。が、こっちも負けてはいられない。意固地なナマエは舌っ足らずに訴える。
「な、なぐもくん、ケーキ」
「ケーキ?」
「まだ、足りない、なら、ケーキがあるから、……たべよ、」
「うそ〜! やったあ、食べたーい♡」
ほっぺをほわほわとさせ、にこにこしながら応じた南雲に、ナマエは人知れず安堵の息を吐いた。
大型の冷蔵庫に向き直り、買ってきておいたホールケーキの箱を取り出す。南雲はゴキゲンな足取りでフォークや取り皿を、食卓ではなくリビングのローテーブルのほうへ持っていった。L字型の大きなソファに囲まれたテーブルだ。
南雲の、陶磁器をきちんと並べる所作がきれいで数瞬じっと見つめてしまう。彼はだいたいのことを丁寧にこなす。器用に、軽やかに、水中を泳ぐ尾びれの美しい熱帯魚みたいに涼やかに。それも幼少期からさまざまなことを叩き込まれた結果だろうか、と考え、そうやって考えるとやっぱりいつものように、ひとつの思考に辿りついた。
──もっと早くに出逢いたかった。
南雲の未知なる部分を、この先知っていくことは可能だけれど。通り過ぎてしまった季節はどうしようもない。彼について知らない時期があるというのは、どこか寂しかった。生まれたときから傍にいればちがっただろうか。わからない。もしもを想定したところで時間はまき戻らないし、なによりこうして傍にいるようになった現在でさえ、ときおり無性に寂しくなるのだから。近づけば近づくほど、かみ合わないところや重なり合えない部分は明白になる。
リビングの蓄音機がメロディーを流しはじめ、ナマエははっと顔をあげた。南雲が一枚のレコードをのせたようだった。ジュース・ニュートン。少し掠れたレトロなトーンで、エンジェル・オブ・ザ・モーニングが部屋じゅうに広がる。デッドプールの挿入歌で、最近のナマエたちのお気に入りの曲でもあった。
ナマエは呼吸くらいのボリュームでハミングしながら、ケーキをつつむ箱に手をかける。スパークリングワインも開けようかな。思い、再び冷蔵庫に目をやったときだった。
「あっ……!」
手がすべった。思いっきり。
「あああ────!!」
直後、怪獣が叫んだような巨大な声が響いた。もしくは地面がまっぷたつに割れたかのような。でも叫んだのはナマエだし、フローリングはヒビひとつなくつやつやと輝いている。
その、磨きあげられた床を見下ろした。南雲のために選んだ、お祝いのプレートもつけてもらったケーキ入りの箱が見るも無残に足もとへ転がっていた。頭のなかは蒼白し、パニックとか困惑を飛び越えて停止している。むしろ冷静であるといえるほど落ち着きはらい、つぶれかけの箱を眺め下ろした。胸のなかだけが、とにかくズキズキしてしょうがなかった。
「大丈夫? ナマエ、怪我は?」
すかさずやってきた南雲が、うつむくナマエの背をさする。手までも握られて、持ちあがる手のひらに合わせ視線を上向きにさせた。彼に見つめられている。
「……ケーキ、落としちゃった」
何日も前から決めておいたものだったのに。喜んでほしくて南雲の好きなお店で選んだのに。
今日は南雲の、年に一度の誕生日なのに──。
「うん。怪我はしてない?」
「怪我は、ないけど……」
「はあ〜」
ならよかったあ。気の抜けていくような声音でつぶやくと、南雲はナマエを抱きしめた。上背のある男に立ったままめいっぱい抱かれればかかとが勝手に浮いてしまう。よかったほんと、ナマエちゃんになにもなくて。繰り返し囁かれてなんだかおかしな気持ちになる。落ちたのは手榴弾ではなくただの紙箱だし、中身は銃火器ではなくふわふわのスポンジやクリームで飾られたケーキだし、ナマエだって殺連員で、殺し屋で。普段はマシンガンやコンバットナイフを使って血濡れになって戦っている。負傷もする。なのにこの人は、どうしてこんなにも。
「大丈夫だよ……南雲くん」
抱きしめられているのに抱きしめているような心地になり、きっぱり返事をする。と、腕はようやくほどけていった。
南雲がしゃがみこみ、床を確認する。
「うわ!」
ひざがしらに手を乗せ、背を丸めて銘菓店の箱を覗いた南雲が歓声めいた驚きをもらした。
「これ僕の好きなお店のケーキだ、でしょ?」
ナマエもしゃがんで、あちこちへこんだ箱を確かめる。幸い中身が外に飛び出すことはなかったため、掃除に明け暮れるバースデーはまぬがれたものの、なかでぐしゃぐしゃにつぶれたホールケーキはナマエの気分そっくりだ。
「神々廻さんに教えてもらったの。南雲くんがここのケーキよく食べたがってるって」
「ふうん。神々廻も僕のことよぉわかっとるやーん!」
ちぐはぐの奇妙なイントネーションで関西弁を披露した南雲は、かと思えばその場にあぐらをかいた。ナマエちゃん、きて、とつぶやく。そして自身のひざの上をぽんぽん叩いた。
「早く。こっち向いて乗って」
ナマエはとつぜんの要求に訝しみ、ちょっとだけ眉間を寄せ、おずおずと従う。数歩歩けばソファがあるのに。
おとなしく対面で座れば、南雲は満足げに目を細めた。そのままがさごそと辺りをまさぐりはじめる。
「南雲くん? なにして……」
気になってふり返ってみると。
「えっ……それどうするの?」
彼はケーキの台座を、箱から出しているところだった。形の悪い大きな洋菓子が、鼻腔に甘ったるい。
「どうするのって、食べるんだよ〜」
「落ちちゃったやつだよ?」
「落ちたのは箱じゃん。ケーキは食べられるよ」
「そうだけど……」
「ナマエちゃんが僕のために買ってきてくれたんだから。食べない選択肢はなくない?」
言いながら南雲は、右手の中指と薬指でクリームをすくった。ごく自然に。そうするのがあたりまえとでもいうように。
「このまま食べるの?! 手づかみで?」
「そだよ〜」
「怒られるよ」
「だれにー?」
「……うーん。天の神さま?」
神さまかあ。南雲はぷ、と吹き出し、ナマエの言葉をなぞった。
「いまさらでしょ。僕、いけないこともういっぱいしてるし。このあとも、ナマエちゃんにいけないことするし〜」
「むぐ」
返事をしようと口を開ければ、口内に指がつっこまれた。記号や算用数字の刻まれた指たちが。毒々しいほどのシュガーをふくませたクリームごと。
「おいし?」
瞳をまあるくさせ、ナマエはこくこくと首を縦に振った。すごく、おいしい。ケーキの味は、想像の範疇をやすやすと超えていく。
ツ、と指を抜き、南雲はかすかに頭をかしげて笑んだ。そうして抜いたばかりの自身の指を舐め上げる。緩慢に、余すことなく味わうみたいに。
「さっきの話じゃないけど」
壊れたおもちゃのようなケーキを掴むようにしてぱくぱく食べながら、南雲は話しだす。
「飽きるほどケーキ食べるのも、小さいころの夢だったんだよね〜。子供のころ、ホールケーキ丸ごと食べたことなくてさ。でも念願叶って、初めてスイパラ行ったときお腹やぶれる〜ってくらい食べたのに全然飽き足らなかった。僕ってけっこう甘党みたい」
「……けっこうっていうか、かなりじゃない?」
「そうかなあ」
ナマエの口もとにもスポンジが運ばれてくる。なめらかなクリーム、計算し尽くされたように合う、酸味のあるフルーツ。胃の腑までを砂糖漬けにしそうなレベルで甘いのに、重くはなく、するすると飲みこんでいけるのが不思議だった。そうと言えば南雲も同意する。最初にここのケーキを買ってきたのは神々廻だったんだ〜と、同僚の食通っぷりをまじえて語りつつ。
「楽しいな〜」
唇のはしに食べカスをくっつけたままの南雲を、でもナマエも楽しいから、気にしない。
「こうやって自由な食べ方できるのも。好きなだけ食べられるのも嬉しい」
「うん」
「しかも目の前にはナマエちゃんがいる」
「ぁ、……」
与えられるくちづけ。ホイップみたいに柔いキス。目をつぶると、口角のあたりを舐められて、自分にも食べカスがついていたんだろうと思い至った。ナマエも南雲の真似をする。ルールブックでは厳禁とされるような方法でケーキにかぶりつき、食べさせ合い、互いを舐めてきれいにして。噛みついて、舌を絡めて。べたついた指先を逸らせて不格好に抱き合えば、南雲は天井を仰ぐようにしてけらけら笑った。ナマエの眼前にのどぼとけが突き出されたので、甘噛みする。うわそこ急所だよ〜なんて、降参する口調で彼はふざける。レコードはとっくに終わっている。部屋にはふたつの声だけが、幸せそうに満ちみちとしていた。
「ねえねえ〜」
「なに?」
「僕のことどれくらい好き?」
「ええ?」
急な問いかけに、ナマエは眉をもち上げる。
「もしかして好きじゃない……?」
「そんなわけ、」
「好きなんじゃなくて、愛してる?」
「……なにそのひっかけクイズみたいな聞き方……」
「答えてよ〜。僕のこと、どう思ってる?」
わかりきってるくせに。やけに真剣な顔をして訊ねてくるのが、呆れるほどくだらなくていとおしい。
「南雲くん」
「はあい♡」
「お誕生日、おめでとう」
「えー! そっち? 返事になってないんだけど〜!」
七月九日、南雲の誕生日。毎年をめぐる夏のように必ずくるのに、あたりまえではない一日だ。まったく奇跡にも似ている日。
ナマエはむくれる南雲に少し笑って、彼の肩に頭を乗せた。ありふれたぬくもり、ただの男の腕のなか。だけど世界で最も安心できる場所だ。
──南雲くんは私のぜんぶじゃない。
南雲はナマエのすべてではない、同時にナマエのほとんどを構築する。彼にとっての自分もそうでありたいと願う。死と隣り合わせで生きる南雲の、死ねない理由や、歳を重ねたい理由のひとつに自分が入れてもらえたなら嬉しい。こうしてふたりでいられるところに帰ってきたいと思ってもらえたら。そのためならいくらでもおかえりなさいを言うつもりでいる。そしてナマエが行きつく先も、いつだって南雲の傍であってほしかった。
「ナマエ」
呼ばれてそっと顔をあげる。きれいな、この世でたったひとつの彼の色をした瞳が、こちらを見下ろしている。目が合うだけで怖いものなんかなにもなくなってしまう。どんなときでも、必ず。
「お祝いしてくれてありがとね」
「うん」
「一緒にいてくれて」
「……うん」
南雲が無傷な陽だまりみたいに微笑むから、ナマエもつられて口角をゆるませた。
そこではたと気がつく。こんなふうに彼のことを想うたび、こうして抱きしめ合うたびに、自分たちが別々の人間でよかったなあと気づくのだ、毎回。南雲と出逢ったことで、ときに激しい寂しさがナマエを襲うようになったけれど、ふたりでいるおかげで保たれる秩序や生まれる幸福もたしかにあると知っている。
なんだか、どれくらい大好きかをいますぐ伝えたくなった。それこそ南雲が飽き足りるほど、もういらないと満腹になるほどに。
「あのね、私」
さっきの問いかけに返事をしようと、ナマエは口をひらいた。見つめる向こう側で、南雲は優しい顔をしていた。