20250709
坂本商店の前をなにげなく通りかかると、店の入口あたりでナマエを見つけた。
彼女は店前に備え付けられたテーブル台へかじりつくようにして背を丸め、なにかに集中している。テーブルにはペン立てがあり、傍らには笹の葉が飾られていることから、七夕の短冊でも書いているのだろうと察せられた。
近づけば思ったとおり、ナマエは色とりどりの短冊をわきに置いてペンを走らせている。
後ろから盗み見てみればいくつかの紙切れにはおいしいものがたくさん食べられますように、コロレンスクラッチで一億円当たりますように、などといった願いが記されてあった。
そもそも普段、スクラッチ買いもしないだろ。呆れ心地で息をつくと、ようやくこちらに気がついたらしいナマエが南雲をふり仰ぎ、とっさに手もとを隠す。
「な……南雲くん!」
「ひさしぶり〜」
「ひさしぶり……」
彼女は書き途中だった短冊を手にしたまま、南雲にしっかり向き直った。
「……見た?」
「いま書いてたやつ? 見てないよ」
「本当……?」
「ホント〜。なに? 見せてくれるの?」
トレンチコートの両ポケットに手を入れて首をかしげると、ナマエがぶんぶんかぶりを振る。見せない、と断言されればなにを願ったのか気になったものの、南雲は結局むりやり奪い取ることもせずにナマエの短冊を吊るすのを手伝った。
「背が高いって得だね」
人心地ついたのか、のんびり言ってのける彼女は真夏の太陽に照らされている。笹の葉の、高いところに吊るした短冊を眺める彼女の横顔を、数秒間見詰める。
「これね、花ちゃんと用意したんだよ」
ナマエがペンを戻し、カラフルな短冊のあるテーブルに顔を向けた。
「花ちゃんが思いついたの。憩来坂のみんなのお願いごとが叶いますようにって」
「ふうん、優しいね。葵さんに似たのかな」
ガラス製の自動ドア、その向こうをちらりと見やった。奥に透けるレジカウンターのなかではいつものように、店長、坂本が新聞を読んでいる。
「七夕は過ぎちゃったけど、しばらく飾っておくんだって。だから私もお願いごと増やしちゃった」
「おいしいもの食べられるといいね〜」
うん、とナマエが笑う。そうして、今夜叶うんだーと続けざまにつぶやいた。血色のいい頬は緩んでいる。
「……今夜?」
「そう」
「なんで? 誰かとどこか行くの? なに食べるの? ていうかどこのレストラン?」
「違うよ!」
響く否定に、まくし立てるように訊ねていた南雲は口を閉じた。坂本さんちで食べるの、ナマエが言う。
「葵さんが夕食に誘ってくれて」
「……ああ、」
そういうことか。胸のうちで独りごちる南雲の傍で、ナマエは相も変わらず腑抜けた表情を浮かべたまま。
南雲はぼんやり、この子のだったら、と思った。ナマエの願い事だったなら、なんでも叶えてあげるのに。たとえそれがどんなに子供じみていても、くだらなくても、仕様がなくても。だから僕にお願いしてくれたらいいのに、と。
ポケットのなかで手のひらを軽く握りしめる。
「あ! 花ちゃーん!」
彼女がふいに、南雲の後方に手を振った。ふり返れば麦わら帽子をかぶった花の姿。
横には葵と、シンもいる。買い物帰りなのだろう、三人ともがエコバッグを持ち歩いていた。葵が肩にかけているひとつからは、ネギが伸びている。
「あらぁ、南雲さんじゃない」
「パパのお友達だー! こんにちは!」
「こんにちは〜。お友達のお兄さんだよ〜」
「なんで南雲がいるんだよ……」
足もとに駆け寄ってきた花に答えると、シンが暑苦しいとでも言うように声をひそめた。
「シンくん、聞こえてる〜」
にこ、と笑ってやればブロンドヘアの青年はますます鼻根を歪め、長居すんなよなーと言い残して店内へと入っていった。
「いま、花ちゃんがくれた短冊にお願いごと書いてたんだー」
ナマエがしゃがみ、花と目を見合わせる。
「お姉ちゃんのも飾った?」
「飾ったよ! 南雲くんが高いとこにつけてくれた」
「良かったねー!」
葵はふたりのやりとりを見ながら、片頬に手を当ててやわらかく微笑んだ。幸せを丁寧に切り取ったような風景だった。南雲はゆっくりとまばたきをする。遠くで鳴り止まない、蝉時雨がうるさい。
「南雲くん?」
はっと目線を上げると、ナマエに見詰められていた。葵と花は、いつのまにか店内へと戻っていた。
南雲はぼうっとする意識を叩き起こし、なあに? と笑顔を作る。
「はい。短冊」
「え、……僕はいいよ」
さしだされた短冊が、ひらひらと風にそよいだ。
「願い事なんか思いつかないし」
南雲は空っぽの短冊を眺め下ろす。
願い事、そんなものひとつも浮かんではこない。心底叶えたい想いが、かみさまや天に祈ったくらいで叶うというのなら、じゃあとっくに自力で叶えているだろうと感じた。
「……一個も?」
一個も。答えると、ナマエは唇を尖らせる。なにかを思案するみたいに空へ目をやって、数瞬。
「決めた」
彼女は再びテーブル台に向かい合い、ずっと隠し持っていた短冊を置き直してペンをさらさら走らせた。
南雲が覗き込んでみても、今度は隠されない。内容を確かめると、南雲くんが二百歳になっても元気でいられますように、なんて願いが込められていた。彼女は南雲くん、の部分に二重線を引き、僕が、と修正している。
「なにそれ」
「南雲くんのやつ」
「……僕の願い事?」
「うん」
「僕、二百歳まで生きないといけないの〜?」
「三百歳くらいまでは生きてもらう」
二度目の嘆息が出そうになった。だってあまりにも子供じみている。だいたい、人がそんなに生きられるわけがないし、ましてや南雲は殺し屋だ。つまりいつ死ぬかもわからない世界に身を置いているのだった。
それに、ナマエ自体は殺し屋業に就いてこそいないものの、彼女の生家は銃や刀、手榴弾や音響兵器などを販売する店を営んでいる。だから殺し屋である人間がほとんどあっけなく死ぬことを、彼女だっていたく理解しているはずなのに。
「これも飾って」
突拍子もない願いに、呆れ果ててはいたけれど。頼んでくるナマエがひたすらに真剣な面持ちを揺らせるから、南雲は仕方なく笹の葉に新たな短冊を吊るした。
「南雲くんのお願いごとがいますように」
「ナマエちゃんのでしょ〜」
「南雲くんのだよ」
鮮烈な大空とくっきりした輪郭の雲、どこまでも果てしない、底抜けにまぶしい空の下。ナマエの記したばかげた願い事は夏の青に染められて、ぼんやりと溶けていくみたいだった。
「そういえば、南雲くんってお誕生日いつ?」
帰ろうと思っていたのに、なかば強引に腕を引かれて坂本商店に足を踏み入れた。アイス食べよ、と浮かれた声で言われてしまえば為す術もない。
そうしてナマエとふたり、ソーダ味の棒アイスをかじっているところに問いかけられる。
「誕生日?」
「うん。めでたく二百歳のお誕生日を迎えたときには盛大にお祝いしないと」
「まだ言ってるの、それ」
「まだまだ言い続ける」
きっぱりと言い放ち、ナマエはアイスをひとくち。南雲のほうはもうすぐ食べ終わるというのに、彼女はいまだ半分ほどしか食べ進めていない。
最後のひとくちを含み、袋を小さくしばっているとルーが二階から降りてくるのが見えた。おせーんだよ、午後の仕事はお前の役目だろ、とシンが目尻を吊り上げ、ルーにエプロンを押しつける。ルーは南雲の存在に気づいたとたん、あからさまに顔をしかめてみせた。
「ね、いつ? 南雲くん、何月生まれ?」
ナマエが、南雲を覗き込むようにした。シンとルーまでもが視線を投げかけてくる。
「うーん。12月、 12日〜」
「冬生まれなんだ」
「そうそ……」
「7月9日。……南雲の誕生日」
そうそう、と適当に笑おうとしたときだった。レジカウンターにいる坂本から訂正が入った。彼はいまも新聞をひらいたままだ。
「てめ……思いっきり嘘じゃねーか!」
「コイツ、全然懲りてないネ!」
シンが牙をむき出しにするように言う。そうして不機嫌な猫みたく怖い顔をしたルーとともに、南雲をぽかぽかタコ殴りにした。南雲は両腕で自身をかばい、頭にたんこぶを作りながらもへら、と笑う。
「ごめんごめん。つい」
「つい、じゃねえよ。ナマエさんにまで嘘つくなよな」
なんて語調を強めるシンのわきで、ナマエが「あ!」と声を張り上げた。
「9日って今日だ!!」
と。いきなり、慌てふためきだしながら。
「どうしよう。私、なにも用意してない!」
「え〜? そんなのいいって。お祝いとかべつに、」
「だめだよ! 一年に一回しかない、特別な日なんだよ?」
ナマエがさっきよりも唇を尖らせた。まるで自分の大切なものを無下に扱われたときみたいに、素直に怒ってみせる。そのさまを目の当たりにすると、弱った気持ちになってしまった。
「……ほんとに、いいから。僕の誕生日なんて、めでたくもなんともないし」
自覚している以上に力のない声が出て、南雲はわずかにうつむいた。手持ち無沙汰だったから、ナマエの持っているアイスの空袋をそっと奪い取る。
「お前、せっかくナマエさんが」
シンがそう、言いかけたとき。
「南雲さん、いる? うんうん、いるわね」
葵が再び顔を出した。なんだろうかと目をやれば、なにか食べられないものはある? と訊ねられる。
「せっかくだし、今夜、晩ごはん食べていって」
「いや、僕は」
「南雲」
断ろうと手を振ったのだけど。坂本に制されて、南雲は言葉を止めた。
「……食べていけ。葵の誘いを断るつもりか?」
地を這うような声だった。上げた手を、ゆるゆると下ろしていく。
「お邪魔しまーす……」
わずかに頭も下げてからなんでも食べられることを伝えれば、葵はにこやかにうなずいた。
坂本が静かに立ち上がる。と同時、シンが「ええっ?!」と店長に視線を投げかけた。
「俺がですか? え? や、そりゃ、俺も葵さんたちをこの炎天下のもとに出すのは心配ですけど……なんでアイツのケーキなんて」
「……誕生日にはつきものだろう」
「でも、っわ! 想像で殺さないでくださいよ!」
「行ってこい、シン」
「……はい。行ってきます」
どんよりとうなだれたシンが、坂本からおつかい用の財布を受け取り南雲の横を抜けていく。
お前のためじゃねえからな、坂本さんに頼まれて買いに行くんだからな、と念押しするようにつぶやきながら。南雲はおもわず、苦笑した。
「ケーキ?」
一部始終を見ていた葵が首をかしげる。その後ろからは花がひょこっと顔を覗かせた。
「……今日、南雲の誕生日」
「まあ! そうなのじゃあ今夜はご馳走様ね! ふふふ、張り切って用意しなくっちゃ。ナマエちゃんもいることだし」
「あの〜、僕のことは本当に」
「花もお手伝いするー!」
お構いなく、と言いきれなかった。南雲はヘナヘナとしながら、困ったな、と思った。こうなるかもしれないという予感があったから、だから今日が誕生日だと伝えたくなかったのに。
あたたかな陽だまりみたいなこの場所にいることに、とつぜん息苦しさをおぼえる。自身の生まれた日をめいっぱい祝われるなんて、そんなの、慣れていない。
南雲はうなだれるように視線を下げた。足もとには影ができ、そこだけが日陰のようになっている。自身の影法師と重なって床にわだかまる、大きなひとつの黒い陰影。
近くに立つナマエのほうには、外からの強い陽射しが当たっていた。はっきりと明度の分かれた床を踏みしめる、彼女の靴。
それがふいに踵を返した。身をひるがえしたナマエは店を出ていく。自動ドアがひらけば、夏のぬるい空気が店内に一瞬、流れ込んだ。
「南雲くん」
そうして。戻ってきたときには、彼女は一枚の、色あざやかな短冊を手にしていた。なんの願い事も記されていないまっさらなもの。
「これ、持ってて」
さっきと同じようにさしだされる。受け取ると、いまのいままで陽光を浴びていた紙切れはやわらかくしなり、露骨な熱をはらんでいた。
「この短冊は南雲くんのお願いごとが叶う券」
「……願い事が叶う券?」
「私からのお誕生日プレゼント」
ナマエがほどけるように笑うから、なにバカなこと言ってるのと突き返すことも、いまはできない。
「お願いごとが見つかったら書いて、私にちょうだい。明日でも明後日でも、何年後になってもいいよ。私が絶対叶えるから」
「……二百年後でも?」
「うん。三百年後でも」
だから叶えたい願いが見つかるまで、それ、ちゃんと持ってて。ナマエはやっぱり真剣なくちぶりで言い、でもやわく目を細める。おもざしはひどくまぶしい、たとえばちょうど、真夏の景色がこんなふうだ。目を焼く早朝、白夜みたいに明々とする晩、夏は四六時中、強い光を放っている。
青空に浮かぶ雲が動いたのか、太陽が位置を変えたのか、気づけば足もとに射す陽光が移ろっていた。タトゥーのある手先を見詰める南雲の目線の先、革靴をはいた足で立つ床には、いつのまにか陽だまりがあふれている。
南雲はいま、明るい光のもとに居た。ナマエと一緒に。
「お誕生日おめでとう、南雲くん。生まれてきてくれてありがとう」
ナマエが頭を傾けた。夏の真ん中で。南雲の目の前で。色彩の明度が高い季節のなかで、彼女はたしかに生きていて、南雲がこの世に生を享けた日を晴れやかに祝福する。
「……ありがとー、」
応えた声は、少し、震えてしまったかもしれない。
夜は、葵と花が作った手料理を、シンの買ってきたバースデーケーキを食べた。坂本や平助からも祝いの言葉を向けられ、ルーからは取ってつけたふうに駄菓子を渡された。
ふざけたり、冗談を放ったり、嘘をついたりして取り繕ってはいたものの、南雲はずっと落ち着かなかった。自分だけが場違いみたいに感じられた。ただ、気分は悪くなく、隣でご機嫌に笑うナマエは可愛くて、こんな夕食時は二度とはないだろうと思えた。
心底祝われた記憶が増えてしまった──そのことを、不安に思わないわけではない。あんまりに幸せすぎると新たな夜明けが怖くもなる。南雲は、暗がりのなかをひとりで歩くほうが安堵していられる気さえしていた。大切なものが手のひらからこぼれていく苦しみを、だって知っている。
けれど一度心の内側に入れてしまったら。海馬の深くに刻み込んでしまったら。もう、その記憶を大切だと思わずにはいられない。
ゼロかヒャク、白か黒、外か内かしかないような南雲の世界にグラデーションをつけるのは、いつだって自分以外の他人なのだった。
「南雲くん」
坂本商店を出た直後、追ってきたナマエに呼び止められ、ふり返る。辺りに人出はない。車の走行音も耳に遠く、空もすっかり陽を落とし、明滅する星屑だけがまばゆい夜。
「泊まっていかないの? 葵さん、布団用意してくれるって」
「さすがに帰るよ〜。いつまでいる気だーって坂本くんに叱られそうだし。ナマエちゃんは? お泊まり?」
「うん。今日はルーちゃんと寝るんだー」
えへへ、と嬉しそうに笑う彼女に南雲も口角を上げた。
「……お泊まりはいいけど。気をつけてよー、
坂本商店には男がいっぱいいるんだから」
「あはは、シンくんたちなら大丈夫だよ」
「そりゃそうだろうけどさ〜」
南雲はポケットに両手を入れた。しまっておいた短冊が、指に触れる。
「ナマエちゃん」
「なに?」
「今日は、ありがとね」
「どういたしまして。南雲くんの二百歳のお誕生日も、絶対お祝いしてあげるから」
「二百か〜……。僕、そのころもうヨボヨボだな〜」
「ヨボヨボでも好きだよ」
「うん、……え?」
「南雲くんがヨボヨボになっても、ずっと大好きだよ」
ナマエは穏やかな声色で言った。おいしいものが食べられますようにとか、コロレンスクラッチが当たりますようにとか。そういう子供っぽい願いを口にするときみたく、率直だった。
彼女の純然なまなざしが、まっすぐに南雲を射抜く。
「……うん」
南雲は少しの笑みを滲ませて、ただ、それだけを答えた。それだけしか言えなかった。ふたりきりの夜は、あたたかく、静かだ。
ナマエと別れ、ひとりになった南雲は月明かりの下を歩く。あーあ、と誰にでもなく小さくこぼしながら、長生きか、と思った。
あの子の願いは叶えてあげたい。ナマエのだったら、どんなものだって叶えてあげられそうだ。
けれど今度のはどうだろう。南雲の
生を望む彼女に、しっかり応えてあげられるんだろうか。確証のない未来を、なんの疑いもなく見詰めることは南雲にとって、ひどく難しい。
でも。
少なくとも彼女より先には死ねないな、とも思う。まだまだ生きていかなければいけないと。
そうしていつか、ふたりして年老いてしまっても、彼女は7月9日がくればやっぱり「南雲くん、生まれてきてくれてありがとう」と言うのだろう。腑抜けた調子で、まぶしい面持ちをして。自分の大切なものを、強く抱きしめるみたいに。
南雲はポケットから、願いの刻まれていない紙切れを取り出した。空にかざしてみれば、うすっぺらな短冊はカラフルに夜を透かす。
そこにひとつの笑顔が重なった。夜風に吹かれて揺れるこのちゃちな紙に、どんな願いを書き込もう。南雲はぼうっと考えながら歩いていった。
「……」
ぬるい気配につつまれて、ナマエの祈りのような短冊をもう一度ポケットにしまい込む。
今夜はよく、眠れそうだ。大きな安心感のなかで。孤独感をどこかへ追いやって。
殺伐とした世界に身を置くようになってから迎えた、幾度目かの、誕生日の夜のことだった。