2025.06.10
ナマエちゃんの泣き顔を初めて見た。休憩室でひとり肩を震わせる姿、その横顔から、しばらく目が離せなかった。
「なにかあったの? 大丈夫?」
「……南雲さん、」
声をかければかみさまにでも縋るような表情をして僕の名前を呼び、さらにぽろぽろ涙をこぼした彼女のことを、僕はたぶん、今後一生忘れられない。そのとき感じた──この子が心配だという確かな気持ちの陰にある、ぞくぞくと這い上がる征服欲にも似た強い感情、もっとぐちゃぐちゃにしてやりたいというみだらな欲求、この泣き顔を他の誰にも見せたくないという独占欲、も。
「ナマエちゃん。おいで、少しこのまま休んでなよ」
休憩室の一番奥、ひとつの丸テーブルでイスを引く。自分も同じテーブルにつくと、缶コーヒーのプルタブを開けた。甘ったるさが喉を落ちる。遅れて、苦さも。
「ですが、まだ仕事が、」
「大丈夫大丈夫、それに関しては南雲さんに任せて〜」
ポケットにあったスマホを取り、彼女の上司に『ミョウジさん借りますね』と連絡を入れたあと、近くの自販機に向かった。一定のリズムを保ってジィジィと鳴るそれしか、休憩室に音はなかった。あとは、あの子と、僕の、呼吸音。
「紅茶でいい? いつも飲んでるやつ、これだよね」
言いながらも、返答を待たないでボタンを押した。ナマエちゃんが普段飲んでる飲み物ぐらい、知っている。スマホをかざせばすぐにペットボトルがガコン、と落下した。おずおずと同席した彼女に紅茶を手渡す。ありがとうございます、どういたしまして、なんてありふれたやりとりを交わしつつ、自分の吐き出す言葉が震えていないかがやけに気掛かりだった。どうにも気分が昂っている。指先に血が巡る感覚までが、はっきりわかるほど。
……ああ、クソ、だめだ。なにをしててもどんなことを話してても、ナマエちゃんの泣いてる顔が頭から離れない。脳内に毒が回ってしまったのかもしれない、
ナマエちゃんがペットボトルに口をつける。形のいい唇には淡い色が乗せられていた。ここ、噛んだら痛いだろうな。痛くしたら、ナマエちゃん、泣いちゃうかも。思い、そのあとで、そもそも噛みつく展開なんかこないか、と自嘲したくなった。
「どうしたの?」
ナマエちゃんが少しだけ腰を浮かせ、あちこちのポケットを探るようにしていた。ハンカチ? と言えばはいと返される。
「席に忘れてきちゃったみたいで……」
「これ、使いなよ。綺麗なやつだから安心して〜」
僕のを差し出すと、ナマエちゃんは慌てたように両手を振った。
「悪いです、マ、マスカラとかついちゃうかもしれないですし」
「いいよそれくらい。ていうか、あげる」
「え」
ハンカチの一枚くらい、売店でも下のコンビニにでも売ってるはずだ。ほら、貰って、となかば強引に押しつければ彼女はぺこりと頭を下げた。
「なんかすみません、いろいろ……」
「いいですよ〜。後輩の面倒を見るのも先輩の仕事ですから」
なんて笑みを返せば、いくらか涙を乾かしたナマエちゃんがやわらかく微笑んだ。
ひとつふたつと会話を重ねていく。なにがあったのか、どうして泣いていたのかは結局聞かなかった。ナマエちゃんが話したければ話してくれたらいいし、そうじゃないなら別のことで気分をまぎらわせてあげたい。
彼女がまた、ペットボトルを口もとで傾ける。その様子を、真顔で見詰めた。
──僕が。
この子を、泣かせてみたい。
と、さっきからずっと考えていると知ったら、ナマエちゃんはどう思うだろうか。綺麗な泣き顔がもう一度見たい、僕で泣くナマエちゃんを見てみたいと考えていると、知ったら。
「どう? 気分は」
そろそろ行かなくちゃいけない。缶コーヒーを飲み干して訊ねれば、彼女は朗らかに笑った。
「だいぶ落ち着きました。ありがとうございます」
「ならよかった〜」
席を立つ。コーヒーの缶を捨てると、私も行きますとナマエちゃんが立ち上がった。ペットボトルのふたをきゅっと閉める手は頼りないほど白く、簡単に折ることができてしまいそうだった。
「南雲さん」
休憩室を出たところで名前を呼ばれる。ふり向いて彼女に向き直れば、視線の高さがずいぶん違うことにいまさら驚いた。こんなに近くでナマエちゃんと向かい合ったの、初めてかも。
「今度、お礼させてください」
「お礼? まさかハンカチの?」
「飲み物と、ハンカチと……それから、気分転換させていただいたことのお礼です」
ナマエちゃんが小首をかしげて目を細める。
「お礼かあ、そうだな〜。今度僕がお金忘れたとき、自販機でなにか買ってもらおうかな♡」
「お金忘れることなんかあるんですか……?」
「あるある。たまーにね」
「たまにじゃなかなかチャンスないじゃないですか」
「じゃあさ」
手を伸ばした。ちょっとごめんね、と小さく言い、ナマエちゃんのまなじりに指先を当てる。残っていた涙の跡をぬぐえば、彼女の頬が一瞬染まるのを見逃さなかった。
「今日のお昼、つきあってくれない?」
「お昼、ですか」
「社食にも飽きてきたとこでさ。どこかに食べに出たかったんだけど、ひとりじゃさすがに億劫で」
「……大丈夫ですけど、私、あんまりいいところ知らなくて……。南雲さんが行きたいお店に、」
「あはは。なにそれ可愛いね。べつに僕、奢ってもらおうって考えてるわけじゃないよ」
「ええ?」
「ただ一緒にごはんしよーってこと」
ナマエちゃんが再び慌てだすのを見ながらも、時計を確認する。ひきとめてしまってごめんなさい、と謝罪が聞こえて首を振った。
「じゃ、12時頃に下で落ち合おっか〜」
言えば彼女はいまだ遠慮がちにうなずいてみせる。泣き顔はすっかりなりを潜めている。よかったと心底思う反面、不埒な欲望は消えきらないままだ。
ナマエちゃんと別れ、彼女にひらひらと手を振ったあとでひとりきりになり、また表情を消した。まずは昼食から──と思慮する。ふたりでの食事がランチからディナーへと変わる頃には、僕たちの関係性にもなんらかの変化が生まれているに違いない。
そうして、いつかは見られるだろうか、と思った。
あの子が僕で、泣くところを。