忠犬は待てができない
2025.06.08





 南雲くんとは学生時代からのつきあいがある。昔の仲のまま大人になった私たちは、ふたりで出掛けることも、どちらかの家で深夜まで飲むこともいまだにしていた。さすがに泊まりがけで映画を観たりすることは、なくなったけれど。

「ほーら、頑張って」

 ゆるく首をかしげた南雲くんは、今日も私の家に遊びに来ていた。きっかけは、大掃除したい、誰かに手伝ってもらいたい、と私が泣き言をこぼしたこと。
 もう業者に全部頼もうかなと吐き出す私に、「じゃあ僕が行くよ」と笑顔で応じてくれたのだった。「おいしいごはん奢ってね♡」とお駄賃代わりの要求も貰い受けたものの、そんなことは構わない。掃除が大の苦手である私にとって、男手がひとつでもあるというのは大きな救いだったから。

「や……やっぱ無理かも」
「え〜? さっきまではやる気だったじゃん。僕の名前くらい簡単に呼べるーとか言ってさ」

 大掃除も一段落し、ふたりでいろんなものをデリバリーし、それが来るのを待つ間。私たちはソファでくつろいでいたところだった。あぐらをかくようにしてこちらに向き合う南雲くんは、足の間にできた隙間に両手をついている。待てのできる大型犬みたいで可愛い、なんて思ってしまう。
 ただ、このこぢんまりとしたソファはとてもじゃないけれど窮屈そうで、背も高く体格の良い彼をもっと広い場所に移動させてあげたくなった。

「よ、……くん」
「えー?」
「……いちくん」
「ねえ本気でやってる〜? 全然聞こえないんだけど」

 つん、と唇を尖らせる仕草は無駄にあざとい。そのあまりの完璧さにうう、と弱々しく唸れば、笑い声が耳に届いた。
 この声も好きだ、と感じる。淡い笑い声がとても好きだと。──私は、南雲くんに恋をしている。もうずいぶん前から。ただの友達止まりで、長いこと実らない片想いなのだけど。

「ほら。ナマエちゃん。与市だよ、よ、い、ち」
「うー……わかってるよ」
「じゃあ呼んでみて。早く早く〜」

 うきうき、そんな文字が似合いそうな顔つきで南雲くんは言い、こちら側へ少し身を乗り出した。ぎしとソファが軋み、私たちの距離が狭まれば、おもわず背を反らせて逃げたくなる。こうして近づかれると心臓が爆速で動いてしまい、コントロールが効かなくなった。

「よ、よい……ち、くん」
「よくできました〜」

 南雲くん、じゃなくて与市くん。そう呼ぶことが叶ってほっとする。僕だけナマエちゃんのこと名前呼びしてるのっておかしくない? なんて突然言いはじめ、ふくれてみせた彼に下の名前くらいすぐ呼べるから、と強がったのが十数分前。
 でも実際に呼ぶとなると私はてんでだめになった。顔を見るのも見詰められるのでさえもどきどきするのに、下の名前で呼ぶことなんかできるわけがない、と感じている。

「はい、じゃあもう一回♡」
「え?!」
「なあに? これは練習なんだから、もっとスムーズにできるようにならないと」
「そ……んなこと言われても」
「デリバリー代、僕が全部もったんだけどな〜。大掃除の手伝いもしたのに……」

 ぐ、と言葉を呑む。それらを挙げられてしまうと引くに引けない、なんだか弱味を握られているみたいだ。

「よ、」
「うん」
「与市、くん」
「はーい♡」

 ふうと息を吐く。下の名前を呼ぶ、たったこれだけのことであからさまに緊張してる私を知ったら、南雲くんはなにを思うんだろう。ばかだねと笑ってくれたらいい。僕も好きだよなんてひとことは望まないから、せめて、嫌いだとは突き放さないでくれたなら。

「ナマエちゃん」
「なに?」
「もう一回、呼んでみて」

 ジ、と見竦められる。リビングには静寂がみちていて、私たちの無言を埋めてくれるものはなにひとつとしてなかった。

「な、なんで?」

 もう耐えきれない。沈黙のなかでこらえきれず、南雲くんに訊ねる。と、彼は顎を引いた。長めの真っ黒い髪、前髪が両目にかぶり、影を作る。

「呼んでほしいから」

 いつもの笑顔もなく。ただ真面目な面持ちで、南雲くんはたしかにつぶやいた。そうして言葉を続ける。

「ナマエちゃんに、僕の名前呼んでほしい」

 なんで、と、再び聞きたくなった。それを見抜いたように、彼は唇をそっと動かしてみせる。

「好きだからだよ」
「え……?」
「好きだから。ナマエちゃんのことだけが、ずっと前から」
「な、」
「だから、下の名前も教えた。……誰にでもは教えない」

 伸ばされた腕。頬をすり、とさすられれば、身じろぎひとつできなくなった。こわばる体を優しくほどくみたいに、南雲くんは触れてくる。

「ナマエちゃんは? 僕のことどう想ってる?」
「わた、しは、」
「うん」
「私も……好き」

 すき、という言葉は日常的に使っていた。この女優さん好き、ジュース好き、お菓子好き、色が好き。だけどこんなにも口にひっかかったことはない。

「うーん。聞こえないかも」

 南雲くんは黒目を斜め上に向け、きょとんと頭を傾けた。私の返事が聞こえなかったはずはないのに、と考えて口先を尖らせると、あははと笑われる。

「ごめんごめん。からかっちゃった」
「やめてよ……こっちはいっぱいいっぱいなんだから」
「可愛くてさ〜、つい」

 なんて言う南雲くんはひどく楽しげで、私の精一杯の答えなんて意にも介していないようで。にこにこと微笑む彼を恨みがましく見てみるけれど、それすらも転がすみたいにされて、どうしようもない。

「南雲くんは」
「ん?」
「なんでそんなに軽々しいの」

 南雲くんがはたとまばたきをやめる。ぱちりと大きな瞳と視線が絡む。それはすぐさま細められ、表情は柔いものへと変わった。

「……ごめんね。同じ気持ちだったのが嬉しくて、浮かれちゃった」

 私の唇に、タトゥーの彫られた指が重なる。ほとんどキスみたいな軽さと、湿度をもってして。ツとなぞられれば肩がはねた。もっとさわってほしい、と心底感じてしまうのは、わがままなんだろうか。

「きみが好きだよ。本当に」

 花が芽吹くときくらいのやわらかさ、それから、雨が降る直前のような温度感で、南雲くんは囁く。
 視界がじわりと潤んだ。まるで梅雨の最中、あたたかい雨滴に打たれたみたいに。

「ね、だからさ」

 もう一回僕の名前呼んで。
 そう言ってみせる彼は瞳を揺らがせることもない。ただまっすぐに見詰めてくるから、私も夜色のまなざしから目を逸らせなくなる。

「……与市くん」
「うん」
「好き、」
「……うん」

 体を抱き寄せられた。腕のなかにつつまれて、耳もとに触れた吐息に甘やかな動悸をおぼえる。
 私は、やっぱり、このひとが好きだ。好きで、大好きで、仕方なかった。
 そ、っと腕をまわし返してみる。さらにきつく抱きしめてくれる南雲くんはいま、どんなことを考えてるんだろう。

「ナマエちゃん」

 鼻先がぶつかりそうな距離で視線を交える。ぼやける視界、私のすべてを埋め尽くすみたいな人影。愛しい、とてもいとおしい人の輪郭。
 南雲くんがまぶたを伏せた。うすく開けた目で、私の唇のあたりを捉える。ゆるく首をかしげ、私の髪を耳にかけて。耳たぶをさするようにしながら、距離を縮めていく。
 私も、目をつぶった。
 初めてのキスは、レモンの味なんかじゃない。なんの味もしなくて、大掃除をしたあとの疲労感があって、あんまりにも静かな部屋のなかでふたりきりなことだけを感じて、私たちはいまデリバリーの到着を待っていて。色めいているとは言えないけれど、二度とは忘れられないと思えるほどのくちづけだった。

「な、ぐもく……ちょっと、待って」

 どんどん深さを増していくキスに、肩口を押し返す。かすかに離れた南雲くんは、数秒のあと、ぽつりと声を漏らした。

「あのさ、ナマエちゃん」

 うん、と言う代わりに彼を眺めれば。

「僕の名前、また呼べなくなってるよ」
「え、」
「南雲くんって言ってた」
「そ……そう?」
「そう」
「えっと……次からは名前で呼ぶね」
「いま」
「へ?」
「いま、呼んでみせて」
「ん、」

 耳を。形を覚えるようにさわられて、耳孔をカリ、と引っかかれて、おかしな声が出てしまう。募る羞恥心のまま口もとを抑えれば、その手首を掴まれた。手のひらまで這った南雲くんの指先と、指を絡めて手を繋げた。そこには幸せみたいなぬくもりが在った。

「ナマエちゃん」

 落ち着いたままで急かしてくる南雲くんは、待て、なんかひとつもできないといった風体。それでもどうしたって可愛くて、私は笑って、南雲くんの名前を呼ぶために口をひらいた。



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