20250617
突然後ろから腕を引かれた。会社の廊下で。あ、と思ったときにはベージュのトレンチコートの袖、タトゥーの彫られた指が視界に入り、抱きしめられていた。
というより、羽交い締めにされたと表すほうがたぶんふさわしい。触れ方は優しくも強引で、たとえばちょうど、うすい花びらをちぎるときの力加減がこんなふうだ。
ふと、夏空に向かって伸びたひまわりみたいに背の高い人の鼻先が、後頭部のあたりへうずめられたのがわかった。すぅぅ、とそこを吸うみたいにする音が聞こえてくる。
「っは〜〜〜……」
続けざまに鼓膜を震わせたのは甘い蜜にも似た声。あたりまえに南雲さんのものだった。
いつもそうだ。この人は気配もないままいきなり近づいてきて──というか私の背後を取り、猫吸いまがいのことをしてくる。そのたび、私、猫じゃないんですけどと心の奥で文句を垂れた。批判的な言葉を訴えたって抵抗したって無駄だともう知ってるから、いまではこうしてされるがままだけど。
毎回新鮮に驚き、心臓を縮ませている私のことを知ったら南雲さんはきっと、あははと屈託なく笑うんだろう。
「南雲さん……現場帰りですか」
羽交い締めにされた状態で、好奇の目に晒されながらも訊ねると、南雲さんは「そー……」と小さく返事をした。やっぱり。この人が私を吸ってくるのは、いつだって大変な任務をこなしたあとらしかった。
「お疲れさまです。離してください」
「やだ〜」
きっぱりと告げてみる、ものの。まわされた腕がほどけることはなく、むしろぎゅうときつく巻きついた。もー、とため息をこぼしたくなる。
私もこれから任務に就くんだけどな、なんて呆れ心地で考えていれば、南雲さんのミョウジ吸いだ、とか、またやってる、とかが遠くで聞こえた。
殺連社内名物みたいになっていることがなんだか悔しい。だけどありきたりな現象と化しているためか、周囲の興味はたちまち削がれていく。
好奇心のまなざしはすぐになくなり、やがて廊下には私たちふたりだけになった。
「南雲さん、そろそろ私、行かないとならないので」
「うん」
「……聞いてます?」
「ううん」
「全然聞いてるじゃないですか!」
「……まだ行かないで」
「でも、」
「もうちょっと、こうしてて」
ごめんね。
南雲さんが弱々しげに囁く。真後ろから降るひとことは、頭蓋の内にじかに響いた。頭のてっぺんから入り込む声は私の真ん中、心を通り、足先までもあますところなく浸透していく。
キスされてるみたいだ、とぼんやり思った。抱きしめられ、くちづけをされているみたい。私がふり向けば、それは本当に叶うんだろうか。もういっそのこと、初めからまっすぐ抱きしめてくれたらいいのに。そうして、きみが好きだよ、と。言って、くれたなら。
「はあ。回復した〜」
長く抱きしめてきていたわりにあっけなく離れていった南雲さんが、私の正面に回り込む。トレンチコートのポケットに両手を入れた立ち姿、背中にあるのはいつものジュラルミンケース。
「ナマエちゃんのおかげで、また頑張れそ」
「なんで、」
「んー?」
「なんで南雲さんは、こんなふうにしてくるんですか」
「そうだなあ〜」
長い黒髪がさらさらなびいた。首をかしげるみたいにして目を細めると、南雲さんはやけに綺麗に笑った。
「ナマエちゃんがそこにいたから」
「……神々廻さんがここにいたら、神々廻さんにするんですか?」
「まさか。同じこと、ナマエちゃん以外にはしようなんて思わないよ」
きょとん、と黒目を大きくして答えるから、つい訝しげに眉間を寄せる。一方で南雲さんはまた、口角を上げた。その完璧な笑顔を見るだけで、私の胸の奥にはこの人のためだけに空けられた特別なスペースがあると気づいてしまう。
「またね、ナマエちゃん」
南雲さんが横を通り抜けていった。
本当にひどい人だ、と感じる。自分の好きなときにだけ触れてくるなんてずいぶん身勝手だし、それにずるい。
そういえば、翌週も大きな仕事が入っているとこの前聞いた。もしかしたらその日も今日みたくしてくるかもしれない。優しく、それでいて強引に。私が南雲さんに向けているこの気持ち、ひたむきに抱えてる恋心の「こ」の字も知らないで。