夜、ホテル、おそろいの香り
20250619





 つけっぱなしだったライトを消してしまおうとサイドテーブルに手を伸ばせば、後ろからふいに抱きしめられた。いろんな模様の乗ったはだいろの腕は筋肉質で硬い。頑丈な檻みたいに。

「起こしちゃいましたか」
「ううん〜。起きてた」

 耳もとで響く掠れた声。嘘だ、と瞬時に気づく。寝ていたはずの南雲さんの、腕のなかでふり向けば、ホテルのダウンライトを浴びた瞳がきらりと光った。

「どこ行こうとしたのー?」
「どこにも。明かりを消そうと思ったんです」

 ふうん、と疑わしげにした南雲さんの唇が、ひたいに軽く押しつけられる。ちゅ、と軽いリップ音を残してから、彼は起き上がった。お互いなにも着ていない、心許無い姿。
 傍に放られていた、ホテル備えつけのバスローブを羽織ると南雲さんはサイドテーブルからペットボトルを取り、水を喉に流しこんだ。丸まった背中、それからわずかに後ろへ傾く頭。長めの黒髪が、うなじにかぶっていた。
 こく、こく、と喉を潤したあと、「ナマエちゃんのも置いとくね〜」と言って新しいペットボトルのキャップをひねり、グラスに注いでおいてくれる。セックスの最中はわがままでいじわるなのに、そうでないときは気を利かせてくるところを好きだと思うし、同時に、気遣われれば無性に淋しくもなった。
 人並みに優しくされると落ち込むなんて、厄介な女だと自嘲したくなる。

「それとも」

 私の視線を気取ったのか、彼がふり向く。

「飲ませてほしい?」

 いえ、と断るとあからさまに不興げな顔をされるからおかしくて、少し笑えば、むくれた様子の南雲さんはペットボトルの水を口にふくんだ。そのまま押し倒してくる。子供のお遊びみたいにじゃれつき、もつれ合い、再び沈んだベッドのなかはさっきの行為を忘れてしまったみたいに早くもひんやりとしている。

「ん……」

 キスが降り、口内に新鮮な水が落ちてくるのを飲みこんだ。私の喉が上下し、ごくりと鳴った音を聞くなり南雲さんは吐息のように笑った。数時間前に取り出してきてあった水は、とっくのとうにぬるくなっている。

「まだ帰らないんですか?」

 いまだ覆いかぶさってきている彼に訊ねる。

「帰ってほしいのー?」
「こんな時間までいるの、めずらしいから」

 私はバスローブを羽織っていないままだ。行為のあとだから下着さえもつけてなく、ただ彼の体温につつまれる。いきなりシーツがあたたまったように感じられ、ああ、あのぬくもりはセックスの熱じゃなくて南雲さんの温度だったんだ、と思い至った。

「帰らないよ」

 ゆるゆると伸ばされた腕。頬を、すり、とさすられる。

「ナマエちゃんがまだ起きてるし」

 きみ、いつもしたあと寝ちゃうじゃん。しかもすぐ。横に僕がいるのにさ〜。
 なんて文句を連ねる南雲さんは、わかっていない。何度も絶頂に押し上げられたあとの疲労感のすさまじさも、行為後、好きな人に抱きしめられているうちにおぼえるやわらかな眠気の手強さも、それに抗うのがどれほど困難かということも、そこでふわふわ寝落ちるときの幸福感についても。

「それにいま帰ったら、きみが淋しがるから」
「……私のために居てくれる、みたいな言い方」

 この夜にまたたく星の、明滅くらいに小さなボリュームで言えば、彼は笑った。口角でうすく。違うよとも、そうだよとも応えてはもらえなかった。

「南雲さん。まだ時間があるなら」

 頬に触れていた指、いまは私の髪を無造作にいじって遊ぶ指先に繋がる、骨ばった腕をそっとつかむ。縋るみたいでもあったかもしれない。私がさわったあたり、手首らへんにもタトゥーは彫られていて、その飾りの意味やいつごろ入れたものなのかを、いますぐ聞いてしまいたくなった。

「もう一回したい、」

 私の髪をといていた動きがはたと止まる。

「……ナマエちゃん、さっきこれ以上できない、イけない、もうやだ〜♡ って言ってなかった〜?」
「うーん。覚えてませんね……」
「嘘つきぃ〜」

 南雲さんがよく上げる、高らかな笑い声のようにベッドがきしんだ。指を絡めて繋いだ手をマットレスに縫いつけられ、甘く与えられるくちづけに没頭する。このまま南雲さんの高い体温に溶かされたい。どろどろに溶けて、そうして、消えてしまいたかった。でもきっとこの人は、私が本気でねだっても、私を殺してはくれないのだろう。

「南雲さん」
「なあに〜」
「優しくしてくださいね」
「あははっ。なにそれ、するわけないじゃん」

 なんて言いながらも身体にすべらされる手つきはひどく柔く、丁寧で、泣きたくなるほど優しかった。消えきらなかった熱が再びくすぶり、口をひらけば嬌声ばかりが漏れてしまう。

「ちゃんと見せて、ナマエちゃんの可愛いところ。僕が全部見ててあげるから」

 言葉になり損ねた声が辺りを満たしていく。そのたび私のなかにある淋しさが、鎮火を知らないでごうごう燃え上がるようだった。
 ずーっと傍にいられたらいいのになあ、と、ひとつに繋がったまんまで考える。セックスは、一番近くにいられる行為であるとともに、どれだけ近づいたって私たちはひとつにはならないと思い知らされるものでもあるから不思議だ。
 いずれにせよ、近づくほど淋しくなるような身体だけの関係なんて、早く断ち切ってしまえたらいい。

「んッ」

 ガリ、と鎖骨の下あたりに噛みつかれた。そこが一瞬激しい熱をおび、まるで鋭いナイフで切られたみたいな感覚がよぎる。
 噛んできたのは南雲さんのくせに、彼が続けざまに傷痕を労わるみたく舐めるから妙に複雑な気分に襲われた。南雲さんの唇は私のあちこちに当てられる。まっさらな肌を狙い、吸いつかれ、噛みつかれ。耳たぶにも歯を立てられて。

「……もっと僕を欲しがってよ」

 甘やかすように囁かれれば、全身に走る快楽に呑まれて頭がばちばちとはじけ、意識は白んだ。
 欲しがってと言われても。欲しがったところで、手には入らないと知っている。私は南雲さんを盗めない。私がそうされたみたいには。なのに南雲さんの持ち物になりきることもさせてもらえなくて、この恋は八方塞がりをみせていた。
 私を盗むなら。奪うなら、すべてを持っていってほしい。日々伸びる髪の毛も、古傷のある肌も、あまり器用でない指先も。愛みたいな形に作り替えられてしまった、この心も。



 ホテルの高層階、大きな窓から夜景を見下ろした。手のひらをつければガラスは存外つめたく、火照った身体を芯まで冷やす。

「……」

 先日、社内の廊下で遭遇した場面をぼんやり思い出していた。廊下には南雲さんと、ひとりの女の子がいた。震える声で彼に想いを伝え、一心に立っている女の子の後ろ姿は脳裏にも、まぶたの裏側にもいまだ鮮明に焼きついている。

ごめーん、つきあってる人いるんだよね〜

 告白された南雲さんの返答を記憶のふちでなぞれば、また胸が苦しくなっていく。彼は二番目でいいから≠ニ食い下がった彼女に対し、二番目もいてさ≠ニ返していた。
 私は南雲さんと、身体の関係を長らく持っている。任務のあとも、休日でも会ったりしている。けれど、つきあおっかと言われたことはない。ましてや好きだと言われた経験もなく。立ち聞きはいけない、と考えつつあの日廊下の影に立ち尽くしたまま動けなかったのは、いま動けば泣いてしまうと確信していたからだ。自分の立場をはっきりと自覚してしまったから。
 ネオンを反射して藍色に染まる夜空の下、透明な空気の奥のまたたく夜景を眺めれば、点在する灯りの数だけ南雲さんに抱かれた女がいるかもしれないという気になって、息が詰まる。

「ナマエちゃん」

 声にふり向くと、すっかりスーツを着込んだ南雲さんが立っていた。こうなるともう、いまのいままで見ていた夜景の綺麗さなど忘れ、私はただ、彼の姿にばかり気を取られた。

「行くね」
「私も、」
「ナマエちゃんはもうちょっとゆっくりしていきなよ。明日、遅めでしょ?」

 また頬をさすられて、数秒のあとでうなずいてみせる。そうして、頑張って微笑んだ。それじゃあまた、会社で、と。またホテルで、とは言わない。最近は南雲さんとお別れするとき、毎回、この関係は今日限りであると強く自分に言い聞かせている。いつ捨てられたっていいようにと前もって準備しておく心は、日ごとすり減っていくようだった。
 こんなふうに改めて南雲さんとの関係値を考えたとき、ふとその場にしゃがみこみたくなることがある。またねなんて不確かな言葉を言い合い、帰り際を見送るのは嫌だった。ドアを閉めたあと、いまのいままでふたりでいた空間にひとりで向き直る瞬間が嫌だった。自分以外の気配が、南雲さんの気配までもが漂うどこかよそよそしい部屋。孤独感に苛まれるあの瞬間が、嫌で、嫌で仕方なかった。
 この人も、私と別れたあとでそういう気持ちになればいいのにとよく思う。たとえば降りていくエレベーターで。帰りのタクシーの席で。女の数だけ灯る街灯やネオンのなかで。ひとりきりで。
 でも、思うだけで口には出さない。口にすればずるい彼は、きっと私に甘い言葉をくれる。嘘つきの唇で。守られない約束を交わせば自分がどうなるのかくらい、たやすく予想がついた。

「派手にやられちゃったね〜」

 まだバスローブを羽織っていた私の首もとに、タトゥーの入った指が触れる。頸動脈をくだり、鎖骨までをなぞりながら「派手にやられちゃった」なんて言うのはどうかしている。キスマークも、噛み跡も、全部全部、南雲さんがつけたものだというのに。
 直後身体を引かれ、きつく抱きしめられた。南雲さんのスーツの、清潔なにおいがした。あとはホテルのボディソープ、いまだけはふたりおそろいの、におい。

これ……他の奴に見せちゃ、だめだからね」

 耳もとで聴こえた低音。濡れた声に、鼓膜が震えた。

「見せるわけないじゃないですか……」
「えー、ほんとかな〜」

 本当だってことくらいわかってるくせに、と悪態をつけば、南雲さんはにこりと笑う。楽しくハミングでもするような調子で。
 脈絡もなくキスが降る。このたったひとつのくちづけのなかには幾千もの言葉があり、想いがあり、夜が詰まっていると思った。これが私だけのものになればいいのに。これがあれば私は充分生きていけるのに、と、思った。

「……跡が消える前に、また連絡する」

 南雲さんは言い、何度かのくちづけを残し、やがて部屋を出ていった。
 肌に残った幾つもの跡は、やがて消える。この夜もいつか過去になる。そしたら私も、南雲さんのことを忘れていくんだろうか。ちゃんと忘れられるんだろうか。わからない。
 洗面室へ行き、大きな鏡で自分の素肌を眺めた。また会えるのなら、と思う。だったら早く消えればいいのに。身体じゅうに刻まれた跡なんか、すぐさま薄れていけばいいのに。そうしてまた明日、彼の腕のなかで眠りたい。
 あてどもなく考えながら鏡を見て、胸のふくらみにまでついているキスマークをなぞった。それは当然こすっても落ちてはくれなかった。あの人の痕跡がこうして私のもとに残っているのにどうしたって淋しくて、夏夜に眩暈をおぼえた。
 隣接した浴室から、ボディソープの香りがたちのぼり、とろとろと流れてきている。もう一度あの香りが欲しくなって、なかばはだけていたバスローブを床に落とすとシャワーを浴びた。
 浴びながら、もうすでに南雲さんに会いたかった。会うたび息がしづらくなるほど悲しくなるとわかっていても、抱えた淋しさは少しも減ることがないと、知っていても。
 南雲さんとおそろいのにおいにつつまれて、ベッドに入り直す。身体じゅうあの人の名残りで満ちみちとしていた。ただ、心のなかだけが、空っぽだった。一番大事なものを、丸ごと盗まれてしまったみたいに。



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