20250801
1
「ナマエちゃん。このあと空いてる?」
それは今夜ふたりっきりで会おう、という意味を暗に込めた南雲さんからの誘いだった。
このところ
殺連のせいで忙殺されている、だけど少しの落ち着きを取り戻したところだった。声をかけられてすぐにうなずいて笑顔を浮かべると、南雲さんも口角を上げる。秘密のやりとりをしてるみたいでなんだか楽しい、なんて、思ってしまう。いつも。
お互いに忙しく、最近なかなか会えていなかった。ようやくふたりでゆっくりできそうだと思えば、残りの仕事に対するやる気もみなぎるようだった。
「ナマエちゃん」
ホテルに向かうため、タクシーを待っているところに南雲さんと出くわした。一緒に行けますねと笑えば、うんと明るい返事。
そのとき南雲さんのスマホに一件の電話が入った。南雲さんは画面を確かめるだけでろくに応答もしない。だけど二回、三回とかかってくれば取らざるを得ないらしい、一本だけごめんねと電話に出た。
ふたりで乗り込んだタクシーが、走り出す。
「うーんごめん。今日は厳しいかも〜。うん。明日も。明後日も難しい。えー? あはは、しつこい子は嫌われるよ〜」
狭い車内では、会話が普通に聞こえてくる。相手は女の子だな、とか、会いたいって言われてるんだなとか。いろいろ、想像をめぐらせた。相手の人に答える南雲さんの声が、鼓膜に染みついて離れなかった。
私と南雲さんは身体だけの関係で、一から十の手順をふまなくてもベッドにもぐれるところがさっぱりしてていい。と、思っている。だけどこの不快感はなんだろう。
だって早く触れてほしかった。身体の外側も、内側も。どこもかしこも南雲さんの指でなぞられて、頭のなかがぐちゃぐちゃになるあの感覚に飢えている。
だから。早く電話を切ってほしくて、南雲さんと手を繋いだ。こちらを一瞥した南雲さんは口の端だけで笑い、指先を絡め直して繋いでくる。ここがタクシーのなかじゃなかったら、たぶん、私からキスをしていた。
私は南雲さんが好き、そう言えたら、この関係はなにか変わるんだろうか。南雲さんは他の女の子と会う約束を目の前で取り付けようとしたり、しなくなるんだろうか。──そう思ったとき、ああ、私はセフレっていう間柄に嫌気がさしてるんだな、とはっきりした。色恋沙汰に直結するようなふたりに。私が好きだと伝えても、この関係はきっと、良いように変わりはしないけど。
ホテルにつき、ベッドになだれこむ。大好きな
男の腕につつまれ、グズグズにされながら、すべてを愛のせいにできる関係になりたいと思った。なんでもかんでも愛で許される関係性に、なりたかった。苦しいことを苦しいと言えずに、愛を愛とは呼べないままの関わり方は、断ち切って。
2
金曜日、夜の街中は人がさざめき、騒音が耐えない。話し声や酔っぱらいたちの笑い声、どこかで鳴るクラクション、葉擦れみたいに響く靴音のなか、繁華街で南雲さんを待っていた。
殺し屋業は常が繁忙期であるけれど、依頼がぱたりと止まる時期もある。いまがまさにそれで、南雲さんとはこの間の夜からもうすでに何回かホテルへ行っていた。そうして持ち合わせた熱を発散する。その有り様は傲慢なほどと言ってもいいかもしれない、お互いに欲望をさらけ出して知性を捨てたように相手を貪るのは、ひどく気持ちがよかった。
今夜も。会おうという話になり、彼を待っている。
顔を上げればイエローやショッキングピンク、ブルーやレッドを滲ませたネオンの看板が、夜空にさまざまな文字を浮かび上がらせている。びかびかとうるさく光る電光の看板に、街灯の明かりは負けていた。下を歩く人々は黒く、景色を切り抜いてしまったみたいに見えた。
その人混みの真ん中に、ふと、ひとつだけ際立って漆黒めいた影が映る。ブラックスーツを着込み、背中には大きなジュラルミンケースをしょっていて、両手をスラックスのポケットに入れながら近づいてくる影法師。
南雲さんだ、とひと目でわかる。それはこの人の背が高いとか、放つオーラが鮮烈だからとか、容姿がひときわ整ってるからとか、あるいはやけに大荷物だからとか。そういった理由からではなかった。南雲さんの姿形だけを遠くからでもすぐに判別できるのは、私が、彼に──南雲さんに、心を惹かれているせいだ。
「お待たせ〜」
南雲さんが頭を傾ける。首の片側に彫られたタトゥーに長い黒髪がかぶり、完璧を表す黄金比がバランスを崩すさまが綺麗だった。
「大丈夫? なんか変な奴に声かけられたりしてない?」
「大丈夫です」
「そ? ならいいけど。僕の仕事がひとつ減るから」
フと笑ってしまった。殺し屋以外の人間を手にかけることはないくせに、と思う反面、こういう甘い言葉を吐くところが好きだとも思う。私はつくづく南雲さんに恋をしている。
「お腹空いてる? なにか食べよっか」
「南雲さん」
彼の袖を引いた。たったそれだけのことで南雲さんはすべてを察したとでもいうように口角を持ち上げた。
「……もう、ふたりっきりになりたい?」
こくりとうなずけば、笑みは深くなる。じゃあ行こうか、とのんびり歩きはじめた南雲さんの背を、追う。
違和感に気づいたのは、そのすぐあと。タクシーに乗り込んだ瞬間だった。
……なんか、南雲さん。女のにおいが、する。
第六感が働いたわけじゃない、本当に、普通に女物の香水が香っている。いままではネオン街にいたから、わからなかっただけだ。芳香剤かと思うような勢いのある香りで、それが鼻に抜けていくのがどうしたって不快だった。
*
タクシーに乗って数分と経たない頃、ナマエちゃんが口を尖らせた。さっきまでの笑顔はとっくに消え失せている。やっぱりお腹が空いてたのかな、それとも別の不満がある? 思案しても明確な答えは出てこない。
「ナマエちゃん」
だから呼びかけた。でも、返事もない。
「どうしたの。ご機嫌ナナメだね」
「……いつもどおりです」
そんなことないだろ。どう考えてもなにかにふてくされている彼女を怪訝に思う。横顔を窺い見ればふいと背けられ、ナマエちゃんは車窓のほうを向いてしまった。
車がホテルの前につけられた。支払いを済ませて先に降りたところで、「私、このまま乗っていきます。ちょっと急用を思い出して」とナマエちゃんが口にした。
「急用? なら仕方ないか。……でも」
「あっ」
「一回降りて。帰りの足は呼んであげるから」
腕を引けば彼女はうろたえつつ、どこか不満げに降車する。
どでかい五つ星ホテルがそびえる真ん前で向かい合った。ナマエちゃんはいまだに険しい顔をしている。
「急用ってなに? ほんとに用事? 嘘を訂正するなら今のうちだよ」
「……」
「それとも。なにか気掛かりなことでもある? 僕はあるよ。ナマエちゃんが気落ちしてる理由が気になってる」
話してよ、言えば真向かいの目線が落とされた。うつむいた彼女は地面を睨むようにしながらゆっくり口を開く。
「……におい」
「え?」
「……南雲さんから女のにおいがする。……女物の香水のにおい」
眉間に少しのしわが寄っていた。心底不愉快だとでも言うみたいだった。
「この間の女ですか?」
む、とした唇で続けるナマエちゃんを見詰める。
「この間?」
「……タクシーのなかで電話してた人。……あの人と会ってたから今日も遅れたんですか」
「は……」
思わず黙ってしまった。
だって僕のほうを見ようとしないこの子が。不機嫌な表情で立ち尽くすこの子が。僕と他の女の子の関係性を探ろうとして気分を損ねてるナマエちゃんが、どうしようもなく可愛い。
「あは」
「……なにがおかしいんですか? 笑うポイントありました? ないですよね」
「うん、ないね」
「じゃあ、」
「やきもちか」
「はい?」
「ナマエちゃん、妬いてるんだ。今」
「……話逸らさないでください」
「僕から女物の香水の香りがするの、嫌か〜。そっか、あはは」
余計に眉間を寄せ、カンペキな怒り顔になったナマエちゃんがきつく睨みつけてくる。そんなまなざしすら可愛い、どうしたらいいんだろう。
「もういい」
と、身をひるがえそうとした彼女の二の腕を掴む。足を止めるしかなくなったナマエちゃんがまた振り返る。僕を見て、瞳を潤ませて。モヤモヤしてしょうがない、みたいな顔つきで。
「離してください」
「さっきさあ」
「離して……っ」
「僕、仕事中、ターゲットに抱きつかれたんだよね」
「なに、」
「ソイツは女でさ。言われてみれば、たしかに香水の香りがプンプンしてたかも」
相手はSランクの殺し屋だった。色仕掛けを得手とする女で、巧妙な罠を張ってくるような。見詰め合う男によって身体の色を変える爬虫類みたいな標的は、当然僕にもチューニングを合わせてくる。だからこっちもこっちで少しずつ、好みの女の子がどういう子か、ヒントを与えていった。何ヶ月もかけて。
ソイツはだんだん、容姿も内面も変えていく。ゆるやかに絵柄を変化させてくトリックアートさながらの手腕だった。ジッと眺めていても、どこが変わったのか瞬時にはわからないほどの。
だけど僕には解った。
ソイツのなにもかもが、ナマエちゃんソックリになっていくから。
ただひとつ、性格は違うと思っていた。そこには自身の理想や願望を込めたつもりでいたからだ。例に挙げるとするなら……やきもち妬きでいてほしい、とか、甘えたがりでいてほしい、とか、四六時中僕のことで頭をいっぱいにしててほしい、とか。
ナマエちゃんがこうであってくれたならいいのにと感じることを全部ターゲットに押しつけた。ひさしぶりに愉快な任務だったと言えるかもしれない。
その女と、さっきまでちんけなホテルにいた。時間をかけてじっくり仕込んだ男の──僕の身体を今にも喰らい尽くそうと光る眼を、よく憶えている。ソイツは今頃、ベッドの上で眠りについているだろう。二度と覚めない、仄暗い夢を見てるはずだ。
そのことを知らない彼女が嫉妬心に駆られてるんだと気づくと、耐え難いような愉悦をおぼえる。
「僕にはナマエちゃんだけだよ」
ナマエちゃんの瞳が揺らいだ。
「女物の香水のにおいがしても。他に相手してる子なんていない、ひとりも」
辺りに人通りがなければ。ここがホテルの一室なら、今すぐ彼女の頬をさすりたかった。抱き締めてしまいたかった。嫉妬に狂い、泣きそうな表情を隠しきれないでいるナマエちゃんがなにかの間違いみたいに愛おしい。彼女に対する独占欲が、満たされる。
だって僕はこの子が、とにかく好きだった。
「夜に会ってるのも……会いたいと思うのも。身体を空けるのも、時間を工面するのもナマエちゃんにだけだよ」
信じられない? 聞くと、彼女は一瞬開きかけた口を再び閉じる。同時に涙がこぼれた。張り詰めた糸が切れる瞬間に似ている。あふれた涙はもう、ナマエちゃんの元には戻らない。
「今言ってる言葉、全部本当だからね。知ってるでしょ、僕嘘嫌いだし」
「……普段から嘘ばっかりなのに?」
腑抜けたように脱力し、ナマエちゃん小さくは泣き笑いをした。
「きみには嘘ついたこと一回もないけど」
「うそつき」
「ええ〜、本気なのに。ひどいなあ、もう」
ナマエちゃんの腕を離す。だけどもう、彼女はどこかへ行こうとはしなかった。
「……メイク、せっかくうまくいったのに」
ぽつりと囁きにも近い声が響く。
「南雲さんのせいで崩れちゃった」
周囲は人声でごった返している、でも不思議だ、ナマエちゃんの声ならどんな些細なものでも拾えた。まばたきの音さえも聞き取れそうだった。ナマエちゃんだけが視界に入ってくる。彼女だけしか、目に入らない。
「ナマエちゃん。やっぱり今夜は、ホテル行くのやめよっか」
「……え?」
「ふたりでなにか食べよう」
「でも、」
「それでさ」
「……」
「どっちかの家で過ごそうよ。明日は休みでしょ? だらだら映画でも観よ。僕、今気になってるやつあるんだよね。なんか冒頭からヤンキーが死ぬらしいんだけど」
「あはは。なんですかその説明」
「……ね? だめ? 今夜だけじゃなくて、明日も傍にいてよ」
「南雲さんは。仕事じゃ、ないんですか」
「一件だけね。任務が入ってるけど……僕の家で待っててくれたら嬉しいかも」
ナマエちゃんのまなじりをぬぐった。ずっと泣けなかったぶんを取り返すみたいにさらに涙をぽろぽろと伝わせるから、指先がやわらかく湿った。
涙目が細められる。泣いてるくせに笑うのも可愛い、けどやっぱり、きみにはちゃんと笑顔でいてほしかった。いつだって。
「ゆびきりしよ」
小指を差し出すと、ナマエちゃんはきょとんと首をかしげる。
「きみは今日から僕以外の男と関係を持たない。約束して。破ったら針千本どころじゃないからね〜」
本心から告げたっていうのに。ナマエちゃんは夜空の下で綺麗に笑い、声を上げて楽しげにした。
それから「じゃあ南雲さんも私のもの。私だけのものですからね」なんて言ってのけるから、僕まで自然と笑顔になる。
やっとこの子が手に入った、と実感すれば腹の底から笑いたくなるのも仕様がない、ただしそれ以上に自分が誰かのものになること、その相手がナマエちゃんである事実が無性に幸せだった。
あーあ。いつか見せつけてやりたいな。ナマエちゃんに会いたいと考えて、でも会うことが叶わなかった夜を数字で埋めるみたいにしてきた証の冊子が僕の寝室に積み重なってる酷い光景。一人きりの夜、ナマエちゃん不足の不完全燃焼な感覚を誤魔化すために解いたパズルの数を聞かせれば、この子はもしかしたら引くかもしれない。
「うん、きみのもの。約束」
小指が絡む。そのまま手を離すことができなくて、ナマエちゃんの指先を絡め取った。指同士が互い違いに噛み合う。
恋人っぽい繋ぎ方だな、そう思った直後、ああ、僕たちはもう付き合ってるって言えるのかと気づき、不慣れなくすぐったさに襲われて、また笑ってしまった。