物憂げな笑顔
20250730





 家に帰ってみると、南雲さんがいた。スーツ姿の彼はリビングのソファに身を投げ出して横になっている。大型のソファを選んで買ったつもりだけど、南雲さんが寝そべるとつま先ははみ出てしまうらしい。

「どうやって入ったんですか?」

 もしかして合鍵持ってるんですかと問いかけたところで、あ、この人酔ってるな、と気がついた。いつもは蒼白い肌が、上気したようにほんの少しだけ染まってるし。ついでといった感じでとろん、としたまなざしを向けられれば確信を得た。

「ナマエちゃーん……」
「あっ」

 腕を引かれてバランスを崩す。床にくずおれないで済んだのは、南雲さんが私の腰に腕をまわしたからだった。私の身体もソファの上に乗っかる。彼の、真上に。

「もう」

 眉間を寄せて口先を尖らせても、南雲さんに悪びれるそぶりはない。ごめんごめんとけらけら笑いながら、しゅるりとネクタイを緩めた。ワイシャツのボタンも、何個かはずしていく。

「ね、どこ行くの〜」

 ソファを起き上がり、降りようとしたときまたしても腰に巻きつけられた腕。動けないですと言えば動けなくしてるんだもーん、と軽快な返事があってため息をついてしまう。

「お水」
「お水ー?」
「そう。取りに行ってきます」
「喉渇いちゃったの? それとも僕のため?」
「南雲さんのぶんですよ」
「ええ〜、やさしー」

 なんて言いながらも南雲さんは腕の力を緩めてくれない。私はソファに腰を下ろしたまま、後ろから彼に抱きつかれたままで途方に暮れた。
 腰から上をひねるようにしてふり向き、南雲さんの横顔を見下ろす。視線を気取ったのか、漆黒の瞳がぱちりとひらかれ、こちらを見た。目のなかもどこか赤いみたいだった。相当、飲んだのかもしれない。

「ナマエちゃん〜」
「なんですか?」
「お水、いらないからさあ……」
「はい」
「ここに居てよ……」

 アルコールを摂取したからか、ほんのりやわらかくなった声で囁かれる。前髪のあたりを撫でてあげると、南雲さんは心地好さそうに目を閉じた。なんだか、甘えんぼの大きいわんちゃんみたいだ。さら、と指先に馴染む黒い毛先。何度かとかしてるうちに、南雲さんの腕も緩んでくる。
 この人はいつも、特段甘えたがりというわけじゃない。ふたりで傍にいればべたべたくっついてくるのは南雲さんからのほうが多いかもしれないけど、見境なくとろけた表情を晒してくるなんてことはなかった。
 ただ、南雲さんは酔うと、溶けきった砂糖漬けの甘いキャラメルのようになる。お菓子のオマケについてくるおもちゃみたいな、特別感のある甘やかさを見せるのだった。
 お水……と、胃薬も置いとこう。ソファを立ち、キッチンのほうに向かう。と、後ろからついてくる足音があった。よろけてはないし、不安定でもない。けどぐずる子供のそれみたいな不規則さがある足音だった。
 ふり返ると、南雲さんは真後ろにいた。

「置いてかないでよ」

 背後から肩に両腕をまわされて、抱きしめられる。私の耳もとにつぶやいた南雲さんの声は夏の夜くらい湿っていて、熱く、そして暗い。

「寝てていいのに。気持ち悪くなっちゃいますよ?」
「うーん」
「聞いてます?」
「うーん」
「聞いてませんね」
「うん」

 冷蔵庫から2リットルのペットボトルを取りだし、コップに水を注ぐ間も、常備薬を用意する間も、南雲さんは私の後ろを離れなかった。
 赤ちゃんみたいですねと言ってみると、「いいよ〜それでも」なんてかわされてしまう。普段ならもうちょっと否定したり、怒ったりしそうなものなのに。

「南雲さん。どうぞ」

 仕方なく、だ。南雲さんがくっついたままだからしょうがなく、ブラックスーツを着込む腕のなかで身をひるがえした。
 南雲さんと向き直れば、彼はやっぱりいまもとろとろとほうけた目線を向けてくる。うっすら染まっている目のふち、かすかにひらかれている状態の唇、力なく気怠げにまばたきを繰り返す瞳。そのすべてが妖艶に感じられ、小さくかぶりを振った。

「ね〜、ナマエちゃーん」
「はい」

 南雲さんの腕がほどける。彼は私の後ろ、調理台に両手をついた。囲われる形になり、少し戸惑う。

「あ、」

 足の間を割るようにさしこまれた、スラックスの片脚。
 南雲さんがぐい、と距離を詰めてくると、私の腰は調理台にますます強く押しつけられ、逃げ道などはなかった。
 彼の胸もと、わずかに緩められたネクタイのあたりに手をはりつける。じゃないと、背が変に反って、立っていることさえも苦しいほどだった。
 そのことに気づいたのか、南雲さんに腕をまわされる。腰を支えられればいくらか体勢も安定した。

「ナマエちゃんが、飲ませて。お水〜」
「な、え……」
「早く早く〜」
「お水くらい、自分で」
「うぅ……」
「え?」
「なんか気持ち悪くなってきたかも〜。早くお水飲まないと、僕死んじゃいそう」

 なわけあるか! とつっこみたくなったものの、ね? いいでしょ? と首をかしげられれば言葉は舌の上で転がるだけで、口の外には出ていかない。
 だいたい私は南雲さんの、この、首をかしげてみせる癖が好きだった。こうやって目を細めて笑う顔が好きだった。湾曲する下まぶたが。前髪がかぶり、隠れがちになる目つきが。
 彼はおそらくそのことを知っている。だっていつもこうだ。私になにかをねだってくるとき、いつも、この表情をする。たとえば、ベッドのなかでだって。
 コップを掴み、唇で傾けた。南雲さんの笑顔が深くなるのを、視界の端で確認する。よしよしと頭を撫でられたらもうどっちが介抱されてる側なのか、判断がつかなくなりそうだった。

「ナマエちゃん……」

 名前を呼ばれて、呼んだ南雲さんはまぶたを伏せて。目をつぶりきることはしないで、私の唇のあたりを見詰めて。頭をゆるゆる傾けていく。キスの、サイン。
 目を、閉じた。唇が重なる。

「ん、ッん!」

 こくり、嚥下する音が近くで聞こえたかと思えば。舌が、入り込んだ。たったいま冷えたものを飲み干したばかりの南雲さんの口内も、舌も、ちょっと、つめたい。

「んんぅ……」
「は、……かわいー」

 囁かれてまぶたを持ち上げれば、南雲さんは薄目を開けてこちらを見ていた。キスの最中見てくるのやめてください、って、言ってるのに。

「ナマエちゃん、もっと」
「ん、ぇ、?」
「もっとちょーだい」
「もう充分、」
「全然足りませーん」
「んんッ」

 南雲さんの肌が熱いのが、スーツ越しでも伝わってくる。私まであてられて、体温を上昇させてしまう。
 キスは深くなり、長く続いた。もう、お水なんかお互い口にふくんだりしなかった。

「は……」

 口を離せば唾液が伝う。てらてらと光る粘液は、南雲さんの親指にぬぐわれて消えた。

「……ナマエちゃん」

 柔く、抱きしめられる。抱きしめ返してみると、背を丸めるようにしてる南雲さんはなんとなく弱々しい。お酒のせい、だろうか──。

「勝手にどこか、行ったりしないでよ」
「……勝手にどこか、って……」

 私はいまさっき、キッチンに向かっただけだというのに。

「ナマエちゃんはさ。……どこにも行かないで」
「……」
「僕の前から消えたり、しないでね」
「……しませんよ」
「絶対?」
「絶対」
「あは……嘘つきさんだなあ〜……。あーあ……殺し屋をやってる限り、僕はきみを縛れないんだよね。命の約束も……交わせないし」

 いまにも眠りに落ちていきそうなボリュームだった。南雲さんの腕のなかで目をつぶる。いままで以上にきつく抱きしめてみるけれど、私のなかにごまんとある南雲さんへの感情が、そのすべてがこうして抱き合ったくらいできちんと伝わるとは、とうてい思えなかった。

「南雲さん……寝ましょうか」
「……ナマエちゃんも寝る?」
「寝ますよ。シャワーを浴びたらすぐベッドに行くので……」
「僕もお風呂場行く。待ってるよ、数独やりたいし」

 ね、だめ?
 南雲さんが首をかしげた。ずるい、こうやって弱いところを突いてこられると結局私はうなずく以外なくなって、浴室へふたりで向かった。
 その途中、廊下でも南雲さんは「ナマエちゃん、急にいなくならないでね」とつぶやいた。浴室からどうやって消えることができるんですか、ドアを開けたら南雲さんがいるのに。そう言うと「たしかに」と彼は笑って、それから、ほんの一瞬、苦しげな顔をした。



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