20250719
朝、ベッドのなかでナマエはちらりと隣を見た。そこには南雲の背中がある。黒いタンクトップを着た姿、肩や腕にはさまざまな模様が彫られているのが見える。
喧嘩がはじまってから数日が経った。相変わらず会話は少なく、おはようとおやすみの挨拶さえもない。
もちろん、キスもしていなかった。与市くんとちゅーしない、と言い放ったのは自分のほうだけれど、あんなの言葉のあやだったのに。まさかこんなにも冷戦状態が続くとは思ってもみなかった。
与市くん、そう呼びかけたい気持ちをぐっとこらえる。本当はいますぐ、起きてと言って後ろから抱きつきたい。いつものように腕枕をしてじゃれついてほしい。もう起きなきゃいけないぎりぎりの時間まで離してくれない南雲が、恋しい。
「……」
だけどやっぱり、先に折れることはできないまま。
ナマエはそっとベッドを出た。南雲はまだ眠りのふちを歩いているんだろうか、起きてくる気配は皆無だった。
休日だ。適当な朝ごはんを用意して食べながら、ぼんやりと彼のことを考える。ナマエがキスしないと断言したとき、南雲は「無理」だとか「絶対やだからね」とか「それで生きていけるの? ありえない」だとか口々に反論してみせた。にもかかわらず、この数日、彼は平然と過ごしている。いってきますのときも皿洗いをしたり洗濯物を干したりしている最中でもかまわずキスを欲しがり、与え、繰り返してくるような男がだ。
「……しなくても生きていけるんじゃん」
ぽつりと独り言を吐き出せば、それは負け惜しみの色をしていた。
お昼前になり、どこかへ買い物にでも行こうかな、出掛けようかなとナマエがリビングで用意をしているところに、南雲がようやく起き出してくる。髪を巻く手を止めて目を向けると、ぴょこ、と跳ねた寝癖がついていておもわず笑いそうになった。どうにか唇を引き結んで「おはよ」とだけ、言ってみる。
「んー……」
南雲の返事は雑だった。ナマエの横を通り過ぎ、冷蔵庫へ向かうと小さいペットボトルの水を取って飲む。その後ろ姿と記号の描かれた指先、反るうなじとそこにかぶる黒い襟足を見詰め、数秒。ナマエは正面、鏡に視線を戻した。ヘアセットを再開する。
「……どこか行くの」
キッチンのほうから問いかけられ、うん、とうなずく。ふうん、南雲が返してきたのはそれだけで、どこ行くの? 帰り、お迎え行っていい? と普段のように続くことはなかった。
髪を巻き終わり、最後のチェックをしようと鏡を覗けば、自分の口先がフキゲンそうにつんと尖っていた。リップをぬり直し、気分を変えようと努力する。
「ナマエちゃん」
バッグを持ち、リビングを出ようとしたときだった。南雲に手首を掴まれる。触れ合うのは、ひさしぶりな気がした。彼の体温はナマエを溶かすあたたかさで、じわりと感情がゆらぐ。
「……気をつけてね」
たったのひとこと。言うと、南雲はすぐさま手を離し、身をひるがえした。後頭部にもささやかな寝癖がついている。それを撫でつけて直してあげたかった。
南雲はソファに向かっていく。数独の冊子を手に取るのを見て、ごはんは? とつい訊ねた。遅くに起きた彼はいまだなにも口にしていない。
「いい。おなか減ってないし〜」
ソファに寝転び、足首を組み、南雲が答える。くちぶりはそっけないともいえるし、とにかく平坦なトーンだった。でもそれは、ナマエに対してというより、自分の面倒を見ることが億劫だと言っているみたいでもあった。
つきあいはじめたころのことをふいに思い出す。当時から、南雲は自身のケアを怠りがちだった。生活リズムを整えるそぶりはないし、食事もまともに摂らないし、シャワーは浴びるけれど休日はボサボサの髪を直すことも後回しにしてひきこもる。飲みに出たりレジャーを楽しんだりする様子は見られず、ただ、何事もなく、数字のパズルをひたすらに解いていくさまを、投げやりともとれる生き方をよく、目の当たりにしていた。
ナマエが世話を焼くようになり、そこからは朝ごはんもしっかり摂る生活になっていた、のだけど。
「……ちゃんと食べなきゃだめだよ」
「う〜ん」
「与市くん、聞いてる?」
「うん」
彼は数独をやめない。ナマエは小さくため息をつき、踵を返した。どこへも行く宛てなどないけれど、家を出ようと思った。外は夏だ。晴れてるし、空は青くて今日も高いのだろう。
「……ね、ナマエちゃん」
再び呼ばれてふり向くと、南雲は腹の上にひらいたままの冊子を伏せ、こちらを見ていた。
「なあに?」
「……何時に帰ってくる?」
ナマエは口を開けたものの、すぐ、噤んでしまう。
「あんまり遅くなんないでね」
追い討ちのように告げられても黙っていれば、彼は「ナマエちゃん?」と身を起こし、どうしたの、なんて聞いてくる。
ナマエはリップひとつぬったくらいで変わらなかった気分のなか、唇をかすかにへの字にさせ、うつむいた。心配してくれて嬉しかったし、だけど有り体に言えば、同じだけ、寂しかった。
「与市くんは」
「……」
「いってらっしゃいのちゅー、しなくても、平気なの?」
弱々しい声が出た。フローリングを見下ろしながら、最近の、ふたりの間を漂っていた冷めた空気を思い返す。
「絶対嫌だって、言ってたのに。ちゅーしないで生きていけるなんてありえないって」
負けだ、と思った。私の負けだと。降参をするつもりはなかった。だけどもう、些細なきっかけから発展した喧嘩を続ける労力も失せていた。くっつかなくてもいいと平気なふりをするのにも、疲れてしまった。南雲に、甘えられたかったし、甘えたかった。
ぎし、とソファが軋む音がする。スリッパが床をこする音も。のろのろとした、足音も。
見下ろす先に人影が浮かぶ。大きな輪郭、南雲の影法師。
「平気だと思う?」
と、上から声が降った。
「なわけないじゃん」
と。
顔を上げる。南雲におどける雰囲気はなく、常にそうであるようにふざけた口調をするでもなく。黒い瞳はまっすぐにナマエを捉えていた。
「でも、与市くん、してこない」
「……きみが言ったんだよ。もうしないって」
「そうだけど……」
「そんなこと言われてさあ。むりやりできるはずないでしょ」
南雲もうなだれるように肩を落とす。うつむき加減になり、後ろ頭をがしがしとかいた。垂れた前髪で、表情は見えない。
「……これ以上嫌われたくなかったし」
「嫌いになんて、」
「ならない?」
「うん」
「どうだろうね。わかんないよ」
「わかるよ……!」
「ほんとに? じゃあ一年後も僕の傍にいるっていま約束できるの? 無理でしょ」
「できる、」
「いいよ。上辺の言葉もらっても嬉しくないし。それに僕、嘘嫌いだもん」
「本気なのに。……与市くんは言えないんだ」
「なに?」
「一年後も私とつきあってるって、いま言えないんだ」
「はあ? 言えるよ」
「な……」
なんで自分は言うくせに、私の言葉は疑うの?
言いかけて、やめる。またおかしな方向に進みだした話をストップさせ、ナマエは呼吸を整えた。南雲のほうも苦々しいおもざしをしながらそっぽを向いている。
「もうやめよう。こういうの」
ナマエが言うと、南雲も「うん」と素直に応じた。一時休戦、だろうか。それとも。
ふと、南雲がナマエのバッグをやわらかい手つきで奪った。それを傍らに置き、そうして、彼は。
「ん」
と両腕を広げる。来て、の合図だ。休戦じゃなくて、仲直りをしようというサイン。
南雲の目もとはいまだ真剣だった。ナマエの葛藤さえも消し去るくらいに。
一歩を踏み出す。筋肉質な腕のなかにつつまれると、いままで張り合っていたのはなんだったんだろう、どうしてむきになっていたんだろう、もっと早く素直になればよかったのかもしれない、と、いろんな感情が渦を巻いた。
南雲に抱きしめられる。
「ごめんね。ナマエちゃん」
「うん。私も」
「……僕のこと嫌いになった?」
「なってない」
「ほんと?」
「本当」
「……でもちょっと冷めた?」
「冷めてないよ」
「……そっか、」
よかった〜、という囁きは、耳もとで聞こえた。おもちゃのおまけについてくるお菓子みたいに甘ったるい声、ナマエの胸をひときわ高鳴らせる音程だ。
「嫌われちゃったらどうしようかと思ってた」
「嘘ばっかり。与市くん、全然そんな感じじゃなかった」
「きみが今日は帰ってこないかも、起きたらいないかもって思ってたよ、……毎日」
帰らないはずないのに。居なくなるはずがないのに。私の居場所は、ここなのに。ナマエは皮膚のもっと下、心の内側で思い、南雲にきつく抱きついた。香水でもなく、純粋な、彼のにおいがした。ナマエはこれが、好きだった。
「与市くん」
「ん?」
「ちゅー、して」
腕のなかで言うと、でも抱きしめる力は緩まない。
「……もうちょっとこのまま、」
なんて南雲がこぼすから、おとなしくされるがままでいた。抱きしめ合うのも久々で、ナマエは、彼の体温を覚え直すように息をする。
「与市くん、あのね。今日、いまからどこに行くか決めてないの」
「そうなの?」
「だから……このまま、一緒にいてもいい?」
「……もちろん」
あたりまえじゃん。南雲はナマエを離さないままで口にした。さっきまでのシビアさもなにもない、いつものように柔和でおだやかなトーンだったけれど、それはナマエの鼓膜へ強い毒みたいに入り込み、うなじや耳もと、脳髄までもをじわじわ染色していく。あーあ、やっぱりだいすきだなあ、と感じる。
「ナマエちゃん」
南雲が、ナマエの頬をさすった。柔くつつまれて目をつぶる。
唇が、重なった。数日ぶりのくちづけは七月みたいな熱度を持っていたし、夏の暑さにとろけたはちみつくらいなめらかだった。
何度も、角度を、深度を変えて繰り返されるキスが心地好い。ナマエは南雲にますます抱きついて、お互いの間に生じる隙間を埋めるようにした。
もたらされるくちづけに応えながら、あとでごはんを作ってあげよう、と思う。喧嘩した日の翌朝も、ふたりでは食べなかったから。
「ごめんね、与市くん。だいすき」
伝えると、返事代わりのキスがひとつ。
このキスで、せっかくぬり直したリップはたぶん完全に落ちてしまった。でも気分は悪くなかった。
そうして。何度目かのキスのさなか、うすく目を開けると、南雲と視線が絡む。
「見てたの?」
わざとむっとしてみせながら咎めるように訊ねれば、南雲は「見てた」と唇のはじっこを少し上げて、優しく微笑んだ。