キスミー
20250629





「もう与市くんとちゅーしないっ」
「はあ?!」

 喧嘩の最中だった。
 理由はとっくに思い出せないくらいくだらないことだったけれど、ふたりの口論はヒートアップしていき、ついにブチ切れたナマエがキスしない宣言を発令した。
 南雲は喧嘩中であるにもかかわらずナマエの身体を抱き寄せ、ぷりぷりと怒る彼女に「なにそれ、無理だけど」「ねえナマエちゃん本気で言ってる?」「それで生きていけるの? ありえない」「絶対やだからね」と矢継ぎ早に迫った。要するに駄々をこねているのだった。
 けれどナマエはぷい、とそっぽを向いたまま、「生きてはいけるもん」などと言い放つ。

「ありえない……」

 絶望的な気持ちに囚われつつ南雲は再びつぶやいた。やがてナマエをぎゅっとしていた腕もほどかれてしまい、ふん! と息巻いて離れていく彼女の後ろ姿を呆然と眺める。
 そうして結局、与市くんに見せたくて買ったの、と言っていたルームウェアに身をつつむナマエは唇を尖らせたまま、リビングを出ていってしまった。

「……生きていけるのかよ」

 取り残された南雲は独りごち、いましがた手のなかにあったぬくもりを思い出す。広い世界でたったひとり、かけがえのない可愛い女の子。
 どこか納得のいかないまま、南雲はソファに寝っ転がった。傍らのローテーブルの上には、おそろいで買ったマグが並んでいる。ソファに座ってすぐ言い合いがはじまったから、中身はまだまだ、残っていた。

「……」

 腹の虫がおさまらない。どころか、苛立ちは増していく一方だ。先に謝ってほしいからではなく、ナマエが口論中に折れないでいたからでもなく。
 キスしないでもかまわない、とムキになっていることに対して、だった。
 おとなげない、そんなことは自分でもわかっている。だけどそれを言えば彼女だってそうだ。

「あ〜……」

 南雲は顔の上に腕を乗せ、深いため息をついた。



 寝室に行けば、彼女はサイドテーブルのランプさえも消して寝入っていた。南雲の家にはベッドが一台しかない。喧嘩中でも一緒に寝る以外ないと判断したのだろう、ナマエは南雲が横たわるほうへ背中を向けて、布団をかぶっていた。今夜出ていくと言われなかったことが、唯一の救いかもしれないといまさら考える。
 かなり広々としたその寝台に身体をすべりこませると、彼女の起きる気配が滲んだ。というより、もともと眠れないでいた可能性もある。一度寝てしまえば頬をつついてもキスをしても頭を撫でてもそうそう起きないような女だ、こんな些細な音や気配で目覚めるはずがない。

「ナマエちゃん」

 南雲は、ここで謝ってしまおうと思った。だってさすがに淋しさが湧いてきているし。ナマエを抱きしめて眠りたいし、おやすみのキスがしたかった。
 だから名前を呼んだのに。
 彼女からの返事はなかった。どうやらまだ怒り心頭のようで、寝返りを打って向き合ってくる様子もない。いまだ腹の底でくすぶっていた苛立ちが、ゆるりと鎌首をもたげる。
 南雲はもう一度ため息を吐くと、「わかった」と言った。

「じゃあもういいよ、それで」

 と。ナマエがわずかに身じろぎする。

「ちゅーしないでいいから」

 突き放すように言えば、今度こそ彼女はふり向いた。暗がりのなか、瞳が揺れているのに気がつく。だけど素知らぬ顔をして南雲もベッドに寝そべり、ナマエに背を向けると目をつぶった。
 おやすみ、もない夜だった。部屋は静かで、耳の痛くなるような沈黙がみちている。
 初めてかもしれないと思った。ナマエとつきあいはじめてからここまでの大喧嘩をするのは、たぶんきっと、初めてだ。
 その夜は、ナマエの寝息もなかなか聞こえてこなかった。彼女はかまってかまってとくっつく南雲をよそに瞬間的に寝落ちてしまうような、ちっとも夜に強くないタイプであるというのに。
 寝つけないでいるんだろうと気づけば、ずき、と胸の真ん中あたりが変に痛んだ。
 いますぐにでも抱き寄せて、絡み合って、キスをしたくなる。そのあとは腕枕をして眠りたかった。ナマエをこの腕のなかにとじこめてしまいたかった、本当は。



 朝になってみれば、隣にナマエの姿はなく。確かめるとリビングももぬけの殻だ。
 部屋を見回せばテーブルの上には小さなメモが一枚。彼女は朝ごはんを外で食べてくるという書き置きひとつ残して、出ていったみたいだった。ソファの上には、見て見てと嬉しそうに披露してきたルームウェアが、きちんと畳んで置かれていた。



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