20250721
まさか、こんなふうに。敵対組織であった
殺連に身を置いて従属することになる日がくるとは、思ってもみなかった。
私がもともといた組織を南雲に壊滅させられてから、二週間と少しが過ぎた。
あのときのことを思い出すとはらわたが煮えくり返る。
最後のひとりとして生き残った私は彼に捕縛され、身体を好き勝手された挙句好きなほうを選んでいいよ、なんて言うような優しいくちぶりでいますぐ死ぬか南雲に協力するかを決めさせられたのだから、当然だ。あんなの交渉でもなんでもない。単なる脅しだった。
その場で殺されるか南雲の下に付くかを選ばされた私は、結局、命が惜しくて後者を取った。それから南雲に嫌々従い、殺連に入社する手続きを踏んだ。
元はといえばターゲットだった女がそんなに簡単に敵地の門をくぐれるわけがないと思っていたけれど、南雲の手引きのおかげなのか案外すんなり社員証を発行され、現在
殺連本部にいる。
社内での仕事はほとんど南雲の雑務を貰い受けることだけで、あたりまえのように私が殺しに出向くことはできなかった。働いている、とは言えないような日々が、淡々と私を通り過ぎていく。
はあ、とため息をつき、気を取り直して資料の山を見上げた。
本部の地下にある書類保管倉庫には、背高いパイプ棚がずらりと並んでいる。棚にはファイルもあれば、分厚いバインダーなんかもぎゅうぎゅうに押し込まれていて、ひとつ抜き出すのだけでも大変なくらいだった。捜し物の資料を見つけ出すため、ずらりとひしめく文字の羅列やふられた
番号を確認する。
「あ……」
あった。けれど欲しい資料はずいぶん高い位置にしまわれていた。脚立を持ってこないといけないかもしれない、このデジタル化の進んだ現代においていまだ旧来のやり方で資料を保管する会社が恨めしい。
脚立を取りに行く前に、一度腕を伸ばしてみる。背伸びもして。だけど指先が資料の底をかすめるくらいで、抜き出すには大掛かりな力すら必要そうだった。諦めておとなしく、踏み台を探すしかない。
そう思ったときだった。倉庫内は常に、古書店みたいなにおいが充満している。その気配がとうとつに揺らいだ。真後ろから、腕が伸びてきたせいだ。
頭の横をブラックスーツの袖が通っていく。視界に捉えた手の甲、側面や指の付け根には、いくつものタトゥーが彫られていた。南雲、だ。
彼の手は、たったいま私が抜き取ろうとしていた資料を棚へ押し戻した。代わりに取ってくれるんだ、そう思ってありがとうございますと言いかけていた口を瞬時に噤む。そのまま資料の背表紙に手をつかれれば、もうどうしたってそれを取り出すことは叶わない。
「なにするんですか」
「ここにいたんだ〜。どこにもいないと思ったら」
囁くみたいなトーンだった。正午を過ぎた気怠い時間によく似合う、溶けたキャラメルみたいな声。耳のふちに触れればくすぐったくて、即座に身をひるがえす。
向かい合うと、逆光のせいもあるのか真っ黒な瞳に見下ろさていた。
崩壊した星さながらの、眼。
南雲が片手を棚についてるからだろうか。無性に、囚われている感覚に陥った。上背のある男を見上げれば視界が陰る。そもそもが暗めの室内なのに、南雲が来たことだけで、辺りはますます陰影を濃くしたようだった。
「南雲……」
「南雲さん、でしょ」
「……、」
「ほら。どうしたの、呼べない?」
「……南雲さん、」
「なに」
「どいてください……狭い」
背中には資料棚。目の前には彼がいて、そのうえつま先同士がぶつかりそうな距離を詰められている。かといって胸もとを突き返すようなこともできないまま、ぼそ、とつぶやいた。
「そうだよね。ごめんね、いま退くよ……なーんちゃって」
嫌でーす。言いながら、南雲はまた一歩ぶんこちらに踏み込んだ。もうほとんど覆いかぶさるような距離感だった。肩を縮めて横にずれ、逃げようとすればそっち側にも手をつかれてしまう。完全に囲われて、逃げ道は消え失せた。
「狭いの、やなの?」
「やだっていうか……誰かに見られたらどうするんですか」
いまは周囲に他の人影がないから、盗み見られる心配もないけれど。
「うーん。見せてあげちゃう?」
「なに言ってるんですかっ」
「冗談だってば〜」
けらけらと笑う南雲に、悪びれるそぶりは皆無で。ポップに弾む笑い声だけが、静かな倉庫内に反響した。
「ね、ナマエちゃん。休憩にしなよ」
「休憩?」
言葉に顔を上げる。
「きみ、今日はずっと動きっぱなしでしょ」
「南雲……さんが、仕事を割り振ってくるから」
「あはは。ごめんごめん」
優秀な子にはいろいろ任せたくなるんだよね、と。彼は軽やかな笑みを浮かべた。それだけで、どうしてか腹が立った。
「僕もね、いま休憩中なんだ〜」
「そうですか」
「だからさ。一緒に居よ」
「あ、」
目の前がもっと、暗くなる。背を丸め、私を覗き込んでくるようにした南雲の、唇が重ねられたからだ。キスなんかしてこないでと跳ね除けたかったのに、抗議はくちづけに呑まれた。
「ん、やめ……南雲さ、」
腰を抱きとめられ、股下には足が割りこみ。塞がれた唇の甘さに不快感をおぼえながら、小脇に挟んだファイルを落とさないよう気をつけつつ彼をどうにか押し返す。
それに気づいたのか、南雲は私の持つファイルを抜き取った。それらはすぐさま、後ろの棚に置かれる。
彼が腕を、私の頭の真横に当てた。ひじから指先、すべてをはりつけるみたいにして。息苦しいくらいの閉塞感に見舞われれば、自分の落ち着きのない心音が辺りににじむようだった。
「んん、」
重なる唇の角度が何度も変わる。キスのはじで南雲さん、と呼んでみるけれど、言葉ごと飲み下すみたいにされてしまう。
南雲の吐息が私の口のなか、粘膜をねぶるようにした。触れられたところから溶けだし、まわりの空気と自分とのさかいめが失くなってしまいそうなくちづけ。
「ナマエちゃん……口、開けて」
ふるふるとかぶりを振る。だってこの男の言いなりになんてなりたくなかった。あの日身体を堕とされたとはいえ、心までも陥落したわけじゃない。
南雲の胸板に両手を当てる。やめて、と暴れてもがけば、その上から武骨な手指が重なった。私の片方の甲も、指の付け根も、爪の先までもなぞられて、最後は手首を掴まれる。わきに押しつけるようにされれば片手ぶんの自由を失った。
「南雲さん、人が……」
言えばようやく解放された唇から、はあ、と息がこぼれた。南雲とは距離が近すぎて、うまく焦点が合わない。ただただ綺麗な黒色がそこにはあり、私の形を映している。
彼はうすく開けた唇をそのままにして瞳だけをきろ、と動かした。動物的な、あるいは支配的ともいえるまなざしだった。
「人?」
「誰か来るかも」
「ああ……来たら教えてあげる」
囁くようにしながら近づかれると、唇同士がまた、こすれる。
「でも」
「ね……だからいまは僕に集中してよ」
そんなの。私はさっきからもうずっと、この人のことばっかりなのに。
南雲が頭を傾け、まぶたを半分下ろした。ぶつかる鼻先。再び重なる唇はやわらかい。敵同士……とはもう言えないだろうか。私はいま、なにせ南雲の手中にある。
けれど仲間とも身内とも呼べない相手とキスをするのは据わりが悪いし、心地が好いわけでももちろんなかった。
「ナマエちゃん、口」
頬をさすられる。親指で下唇をめくるようになぞられれば、ぬち、といやらしく湿った音が耳に響いた。口のはじからはじまでを、ツと辿られる。逆の腕、腰にまわされた片方からも逃れられるわけはなく、もはや彼に縋りつく以外ない。
南雲との距離は相変わらずとても近くて、見詰められるとひどい熱が生まれるみたいだった。
「ほら。あーん」
「……、」
促されるがままに口を開けると、うすく目を伏せて私の唇のあたりを眺めた南雲も、小さく口をひらくのが見えた。ケーキにでもかぶりつくようにされる、舌先が、触れ合う。
「ん……」
ぬるりと歯列を辿られて、ふたりぶんの唾液がまざった。彼は上顎のほうまでくまなく味わうようにゆるゆると動く。口内に割り込んできた熱い舌は、奥に引こうとする私のそれを何度も絡め取り、撫で回した。
下腹部がぞくぞくする。腰や素肌が跳ねそうになる。抗争が終わった直後、何度も口の奥や体内までをさわられたときのことを、思い出してしまう。
「ふ……ぅ、んん、」
呼吸を奪われる苦しさから逃げたがると、舌を甘噛みされ、全身がこわばった。キスだけであふれる声が悔しい、鼻にかかった吐息を聞かれたくなくて意識をしゃんとさせる。必死に。
南雲のぬくもりがかすかに遠ざかった。いつのまにか彼のワイシャツをぎゅっと握っていた手を、慌ててほどく。
「ナマエちゃん」
真夏くらいに高い体温が──南雲の息が耳たぶにさわった。ついびくりと反応し、震わせてしまった肩には、気づかれただろうか。
「……一生懸命、静かにできていい子だね」
「ッ、」
甘く歯を立てられて、耳にじれったい痛みが走った。腰がびりびり痺れる。おなかの奥も、脊髄も、脳天も。
声を出したくなかった。恥ずかしかった。そのことすら見抜かれていたと知ると、血管じゅうが膨張していく気分に見舞われる。ひどい羞恥心だった。
「ほんと可愛い、」
「んんッ」
キスに塞がれた唇では上手に言葉を紡げない、口内をなぞられていく。意識がとろんとしてしまう。全身から力が抜けていき、大嫌いな南雲に、だけど助けを乞うみたいに抱きついた。
「目、開けて。……そう、そのまま、僕のこと見てて」
従えば、南雲も私を見ている。舌先も、視線も絡ませて、たったひとりの人間になってしまったみたいにふたりでぐちゃぐちゃになった。
ぎらつく闇色、捕食者の眼つき。ひらいた瞳孔のなかにとじこめられた、私の形が在る。
「は……ぁ、」
強引に、でも優しく押し入ってきた舌に自分の舌を舐められる。腰にあった腕が動く。それは私の脇腹を這い上がり、背骨を伝ってうなじへと移った。
後頭部に指が、手のひらがうずめられる。頭を押さえられれば、くちづけはさらに深くなった。粘着質な水音が鼓膜を虐めるみたいに響いている、どうしようもなくなって、呼吸を忘れてしまう。
「あは……」
昂るキスに息を乱していると、弱く笑われるのが聞こえた。
「僕のこと好き好き〜♡ って顔、してるよ」
「そ、んなの、してない……!」
「えー? そうかなあ。ちゅーが気持ちよくてたまりません、って感じに見えるけど。違う?」
「ちがう、」
「そっか〜、違ったか。ごめんね? 僕の勘違いだったみたい。そうだよね、嫌いな男にキスされて気持ちよくなるわけないもんね〜」
「っ……」
たやすくキスに溶けてしまった自分と、快感を与えてくる南雲に対しておそろしいほどの苛立ちがこみあげる。硬い胸もとを押し返した。
「なぐも、……」
「南雲さん」
「南雲、さん、」
「んー?」
「そろそろ、」
「だーめ」
まだだよ〜。南雲は愉快げに言い、キスを続けた。
「もっと見せてよ、ナマエ」
「ん、なに……」
「嫌いな男にいいようにされて怒るとこ。もっとたくさん、見せて」
「なっ……!」
「こーら。暴れないの」
抵抗はすべて抑え込まれ、ちっとも効かない。口が重なっては離れる。子供のお遊びのような軽々しさでリップ音をたてたかと思えば噛みつくみたいにされ、立っているのも精一杯になってくる。
嫌だな、と思った。身体が、南雲を覚えてしまいそうで怖い。どこまでも暴かれて、貫かれて、さわられて、躾けられてしまうんじゃないか、なんて。
だってこうして、南雲に深く堕とされて、そうすると私は自分の居場所を初めて見つける気持ちにさせられた。毎回のように。
だから。
せめてもの反抗心で、思いっきり口を閉じた。歯が、南雲の舌に食い込む厭な感触がした。
「っ、……はは」
お互いの距離がわずかに離れる。口と口を透明な糸が繋いでいて、笑い声をこぼした南雲の口角からは真っ赤な血が垂れた。キレられるかもしれない、怒声を浴びせられるかも。そんなふうに考えていたのに明るく笑われて、予想外のことに鳥肌がたつ。
「いたーい……」
ぺろ、と舌なめずりをする南雲はまつげを伏せた。親指で唇のはじっこを押さえ、あふれる血をぬぐう。
どうしてか、私の心臓がどきどきとうるさい。辺りのオーラが総毛立つような鋭さを持ちはじめたせい、かも、
「あっ……」
一瞬の隙だった。ひゅん、と風が目の前を切ったかと思えば、首をわし掴みにされていた。顎の真下、頸動脈が絞まっている。ぐ、と持ち上げられればつま先立ちになるしかなく、苦しさにゼェゼェと喘いだ。
「ひどいなーナマエちゃんは。べろ噛むなんて……。ね、僕が優しくて良かったね」
「っん……」
「飼い主に噛み付く犬は、本当ならきつく叱られても仕方ないんだよ?」
ぎりぎりと首が絞まっていく。音がぼやけだし、ものすごい耳鳴りに襲われた。意識がぐらつく。気を抜けば飛んでしまいそうで、ひたすら南雲の目を見詰めた。
「あはは。いい顔」
がっしりとした手首を両手で掴み、離そうと試みる。でもそれは少しも緩まない、硬い骨が手のひらに食い込むのがわかる。
もうだめかもしれない、
意識が落ちる、
「はーい。喧嘩は終わり〜」
重力を失くし、酩酊状態にも似た心地のなかで目をつぶろうとしたときだった。ぱ、と力を緩められた。
肩で息をする。大きく吸い込み、むせてしまえば頭をよしよしと撫でられた。苦悶のせいでにじんだ涙がぽろ、とあふれる。
南雲の片手は、でもまだ私の首すじにあった。
「んんッ……」
絞殺間際みたいなさわり方をされたまま。どくどく脈打つ頸動脈を押さえられたまま、再びくちづけが降る。首を絞められたせいで足にも腕にもうまく力が入らず、南雲にしがみついた。彼の口内は、血の味がした。
「いい子にしててよ……僕、無駄な殺生は嫌いだからさ」
抱きしめられると、清廉な彼の香りにつつまれる。石鹸でも、柔軟剤でも、香水でもない、殺し屋にはとうてい似つかわしくないような、南雲だけが持ち得る、この人の香り。
「ね? はい、わかりました……は? ナマエ」
「……」
「言えないの?」
「わ、かりました……」
ウンウンうなずく南雲はようやく手を離していく。
こんな現状で。すべてを掌握された状況で、私は命からがら生き延びたと、はたして言えるんだろうか。
「じゃあ今度はきみからしてみせて」
南雲が、雰囲気をがらりと変えて口にした。
「は……」
「キス。忠誠を誓います〜、ってヤツ?」
あはは、といたずらっ子みたいに笑う姿は余裕そうで、いまのいままで他人の首を掴み上げていたということをすっかり忘れてるようなおもざしですらあった。
ぐっと睨んでみるものの、なあに? と首をかしげられてしまう。
「早く早く〜」
南雲が目をつぶる。スラックスの両ポケットに手をつっこみ、戦闘態勢には入らないままで。それが私を舐めきっている証みたいで口先がつんと尖った。
彼はまぶたを持ち上げない。いまナイフを振りかぶれば、もしかしたら──。
「ナマエちゃん」
瞳を閉じた状態で、南雲が私の名前を呼んだ。
「右手のナイフ、出したら怒るからね」
おもわず目を見ひらく。あのときとおんなじだ、と思った。私が腰に隠し持ったハンドガンでこの男を殺そうと企んだ、あの、廃ビルでのひとときと同じ。
南雲に、隠し事はできないのかもしれない。
「ほら、ナマエ。キスしてよ」
まつげを伏せたまま、ほんのわずかにうすく瞳を開けた南雲はこっちを見下す目つきをした。
ごくりと唾を飲む。途方もない悔しさを、腹の底に押し戻すみたいに。
「目、つぶってください」
「は〜い♡」
素直に言うことを聞いた南雲の前で、背伸びをする。バランスが取りづらいから、しょうがなく彼の胸もとに手をつけば腰を支えられた。唇を押し当てる。
と、さらに抱き寄せられて密着した。恋人同士が仕事の最中に人目をかいくぐってする、甘やかなキスの時間みたいだった。
どうしよう。私は今後、どうしたらいいんだろう。
南雲の手のひらの上で踊るのをやめたい、でもそうするにはこの男を殺すか、私が死ぬかの二択しかない。圧倒的に叶う確率が高いのは──。
「ナマエちゃん……考えごと?」
キスの狭間で頬をすり、と淡くさすられた。
「せっかくふたりっきりでいるんだから。僕のことだけ、考えててよ。……ね?」
憎い。この男が憎くてどうしようもない。私のいた組織を壊し、私から居場所を奪い、そして足場の不安定な環境を与えてきた男だ。
心のなかでみるみるうちに膨らんでいく憎悪は、殺気となって周りに漂う。
「……そんなに僕のこと、どうにかしたい?」
南雲は殺気立つ気配に気づいたらしい、目を細めてのんびり問いかけてくる。それでも黙っていると、彼は口角で微笑んだ。
「可愛いね」
無様だね、と言われている気分だった。涙をこらえて口を噛み締める。
早く、私が元いた組織の裏で糸を引いていたという、本物の黒幕を見つけなくちゃ。南雲の本当のターゲットを。奔走して、尽力して。この人の目的を叶えなくちゃ。
そして解放されたい。そのために私は今日も、明日も、明後日も、この殺連であくせく動き回るはめになるのだろう。
「ナマエちゃん、」
こうして、大嫌いな男の。
「もう一回」
南雲の、監視下に置かれたままで。