南雲の恋と執着/2024.05.27
無防備な笑顔だ、と感じた。彼女は親しい人間と話すときには、あんな表情をみせるのだと。
夜。南雲は喫茶店の窓から、真向いの古書店を眺めていた。小さく古めかしい店の前、赤いひさしの下で微笑む女──ナマエは書店員で、いまは買い物におとずれたらしき男となにかを話しているところだった。風であおられて揺れる花みたいにせわしなく表情を変えるさまに釘づけになってしまうのは、南雲がナマエに強い関心を抱いているせいだ。
とはいえ出逢いはなんてことのない、ありふれたものだった。いつかの昼下がり、狙っていた
標的が街の古書店に入っていったのであとをつけてみれば、そいつはサイレンサー付きのハンドガンを店員に押し当てていた。そして照準をさだめられ、蒼褪めていたのがナマエだった。
あのときの敵の捕縛は南雲にとって、本のページをめくるくらいに容易だったと思う。やれやれ、と吸った息を吐きだすころにはちんけな銃を奪い終わっていたから。
「ありがとうございます」
捕らえた標的を連れて店を出ようとすれば、ナマエは頭を下げた。きっちりそろえて重ねられた手は震えている。死にかけたのだから当然だ。ただ、死への恐怖は殺し屋業を営む南雲のなかからはすっかり消失した感情であったため、この日は単なる一般人として過ごす女との遠さを実感するばかりだった。
以降、ふとした拍子にナマエのことを考えている。ひと目惚れというと耳ざわりがいいけれど、南雲の内側へまるで内蔵のように居座る想いは執着心にも近い。もしもこれを恋と呼ぶのなら、恋心はとてもきれいな感情ではない。
喫茶店を出ると、カランカランと小気味好い音をたててドアベルが鳴った。外はあじさいの埋まる土みたいな湿気がみちている。もう六月だ、まもなく梅雨入りするのかもしれない。
古書店も締めの作業に入っていた。しかしさっきの男はいまだにおもてにいて、ときおりふり返ってはナマエに手を振ってみせる。ふたりはつきあっているのだろう、おそらく。
──僕が話しかけに行ったら。
ナマエはどんな顔をするんだろうか。南雲はぼうっと考える。まんまるの黒目を上へ泳がせ、次に右へ向け、最後は足もとへと落とした。熟考したところで、答えなど解るはずもない。そもそもが、ナマエとは友人でもなんでもないのだから。
──ばかばかしいな。
じめじめとした夜気の下を歩きはじめる。と同時、古書店のほうからシャッターをしめる音が響き、お待たせ、と
雨滴みたいにはねる明るい声も聞こえた。なんだか体が、一歩一歩が重たくなるようだった。
錘を背負っているみたいだ。火薬も、銃器も、いつものジュラルミンケースも、いまは持ち運んでなどいないというのに。
南雲は鏡を見詰めた。顔をふり、右側、左側、視覚に入れられる自分をぜんぶ確かめる。鏡のなかには先日見た男──ナマエとつきあっているはずの男の姿、が、写っていた。
ナマエの知人に変装するなんて、本当になにをしているんだろうと呆れ心地にもなる。自身に呆れ果てる瞬間は、殺しを終えた直後の帰宅時、リビングにひとりで佇むのと似ている。手を洗うとか服を着替えるとか連絡をするとか、たまったチラシを捨てるとかゴミ袋をしばるとか食事をとるとかやることはとにかくたくさんあるのに、次にどんなアクションを起こせばいいのかわからずちっとも動けなくなってしまうとき、自分がおそろしくまぬけに感じるのだった。血濡れた仕事中とは程遠い、あんまりにも平穏な日常の真ん中で。
南雲はため息まじりの息をひとつつき、鏡から目を逸らした。
目的地へ向かう。この間の湿度が嘘みたいな晴れ空が広がる今日は、夏のコントラストがまぶしく、眼球をジリジリ焼いていく。
やがて赤いひさしが見えてくる。ひさしは今日もいつものとおり、雨風にさらされてくすんだ色をしていた。そのことが南雲を深く安堵させた。
店に入ると、古本特有のノスタルジックなにおいが鼻を抜ける。空調の整った店内はつめたく、うす暗い。かといって居心地は悪くなく、むしろゆるやかな時間が流れる空間にいつまででも溶けこんでいたい気さえした。
「あ……!」
レジの傍まで行けば、奥で読書していたナマエがこちらに気がつき顔をあげる。ぱっと明かりの灯るような笑顔がこぼれる。
「どうしたの? こんなお昼どきに。また会いにきたくなった?」
悪戯っぽく言うので、まあね、そんなとこ〜と答えると、ナマエはわずかに疑わしげな目をさせた。
「なんか変なの。しゃべり方、そんなだったっけ」
と。くすくす肩を揺らしながら。
「ひどいな〜。本当に会いたくなっちゃったから来たのに」
おどけるように返しつつも、南雲はとつぜん放り出された気持ちになった。たとえば、無駄に広々とした自宅のリビングへと、ひとりぼっちで。
「やっぱり変だよ」
ナマエが、あの日と同じ無防備さでまなじりを下げる。この表情だ。心をゆるした相手に見せる顔。足もとから満ち足りていく感覚がする。それとともに、指や首すじにタトゥーを彫ったときよりも、戦闘中に負傷したときよりもずっと鋭利な痛みが心臓のあたりをかすめていった。まじりけのない笑顔は、南雲に向けられたものではない。
「ねえ、せっかく来てくれたんだし。いまは私たち以外誰もいないし、少しだけぎゅうってして」
ナマエは騙されたまま。南雲のことを自身の恋人だと思いこんだまま、白く一途な声でつぶやいた。そうして南雲の──彼氏の返答を待たず、腕のなかにやってくる。変装しているいま、お互いの間に身長差はさほどない。だからひどく抱きしめやすかった。腕をまわしながら、嘘をつくのをすぐさまやめてしまいたいと思った。
「会いにきてくれて嬉しい。会いたかったのは私もだから」
「……」
「あーあ、このままちゅーしたい。でもさすがにだめだよね」
言葉に詰まる。そうして二秒後、返事の代わりみたいにナマエの耳たぶをなぞれば、目の前のおもざしはちょっと驚いたものへと変わった。本物の彼氏はこういうとき、キスをあげない男なのかもしれない。そんなことには気づかないふりをして、ナマエの頬をさすり、目をうすく伏せ、首を軽くかしげる。くちづけの合図。
ゆるゆると、正面にあるまぶたが閉じられた。まつげがかすかに震えるのすら見える距離にいた。ナマエとのくちづけは、やわい清らかさをもってして、南雲にいくつもの傷をうえつける。脳みそが溶けそうなくらい甘い、憂鬱なキスだった。
「大好き」
ふたりだけの内緒話をするボリュームでナマエが言う。私のことは? 好き? なんて続けざまに聞いてくるのが可愛くて、どうしようもない。
「……好きだよ」
ひとことを応えた唇は、やけに乾燥していた。これが──この唇が、この言葉が、はたして自分のものといえるのか、別人の姿を装う南雲にはもうわからなかった。