亡くなった彼女のものを捨てられない話/2024.08.29
読んでいない本が一冊、二冊、三冊と増えていくうちはまだよかった。本屋に立ち寄ってみようという気力も、それを実行する労力も、本を選んで買う余力もあったように思うからだ。小説もコミックスも雑誌も、いつから数を増やさなくなっただろう。いつから本棚の顔ぶれに変化がなくなったんだろう。考えてみるけれど、考えるほどに頭がぼんやりする気がして南雲は思考を遮断させた。
ひとりぶんにしては広すぎるベッドの上、つむじを枕へこすりつけるようにしてヘッドボードの時計を見やれば時刻は午後一時を過ぎている。といってもこの自宅へ帰宅したのは朝方だったから、寝すぎてしまったというわけでもなく、短時間で熟睡できたともいいがたい疲労感を抱えていた。
たいていが閉めっぱなしである状態のカーテンの、うすい隙間から陽光が射しこんでいる。
南雲は目もとに腕を乗せた。まぶたの裏が赤黒く染まっていく。太陽が出ている日中は、こうして視界をふさいでも夜ではないとたしかにわかるから不思議だ。真っ暗闇がいまは恋しい。どこかへ出かけようよ、カーテンを開けてと無神経に誘ってくるようなまぶしさが、皮膚の下を埋め尽くす疲れを助長させた。
スマホを取る。取り急ぎの確認をしたあとは仕事のメモ書きすらしてないカレンダーを見るともなしに見て、ベッドの隅へ放った。とくに大事な連絡などは届いていなかった。
そもそも、南雲の電話番号やメールアドレスを知っている人間は少ないし、チャットアプリに並ぶ名前もそう多くはない。いつだったか、
✕の連絡先を探すため──というよりはほとんど悪戯心で戦闘相手から奪ったスマホを覗き見たあと友達が少ないことをつっこみ、からかった過去もある。けれど南雲自身、他人にどうこう言えるありさまではなかった。
そういえば、他者との繋がりをもちたいという思いが減ったのは、本屋へ気軽に寄らなくなったのと近い時期だったかもしれない。外へ出るのすら面倒だと感じるようになったのも。
緩慢に起き上がり、南雲は後ろ頭をがしがしかいた。起きたばかりのせいで、まつげの上には
錘が乗っかっているみたいだ。着ている黒いTシャツはよれている。でも新たな部屋着を買うのは後回しにしているし、実際それで困ることはなかった。日常は、どこか数独めいている。ぽっかり空いた、やがては埋める必要のある穴の処理をあとに、あとにと回していけばいずれ行き詰まるときがきたりする。パズルは困ればやり直せるし、飽きれば捨ててしまえるけれど。人生以上にたやすく。
「……」
数独か、最近やってなかったな、と気がつきベッドを降りた南雲の足の裏が冷える。部屋のはじっこに備えつけた小ぶりな棚までを、のんびりと歩いた。カーテンは閉めたまま、だぼっとしたスウェットをはいたまま、私服にさえ着替えないまま、重たい足どりで。
めがけた棚は、もともと本棚ではなかった。ただし買っても本棚へしまうことをしなかった本や、読みさしのものがいくつも重なっている。つけなくなった古い腕時計や好みに合わなくなった香水なども傍には。ひきだしのなかには部屋着が詰まっている、そんな棚だ。
積まれた本の、一番上の一冊を軽く撫でれば小説のつやめくカバーが少しざらついていた。ほこりをかぶっているようだった。不快な感覚をおぼえ、指先を軽くこすり合わせる。
幾重にも重なった本のうち、南雲の腕は結局数独の雑誌ではなく、下から二冊目を抜き取った。いつからここへ積みはじめたか定かではないブックタワーだけれど、下にあればあるぶん過去を付随させているのは間違いない。昔になにを買ったのか、ふと気になってのことだった。
「あ」
これって、と抜き出した文庫本に思い馳せ、南雲は裏、表とひっくり返す。初めからおもしろいけどラストが本当にすごいの。そう興奮気味に話すナマエに借りた一冊だった。そんなに言うならむしろ読みたくないな、読み終わるのが惜しいなと読みしぶっていた物語。
それだけを持ち、文字の羅列が見やすいよう、わずかにカーテンを開けて光を取りこんでからベッドへ戻る。腰掛けるみたいにしたまま背を倒し、寝転ぶと、両腕を天井に向かい伸ばした。手の先には小説。表紙をまじまじ見ても主人公の名前はなかなか浮かんでこないし、あらすじもいまいち想起できない。
ほの明るい部屋のなか、南雲はまず表紙をひらいた。目に優しいクリーム色のページと、タイトルや飾り枠が視界に入る。下のほうに載る作家名にはちょっとの
陽が当たっていた。午後のとろける光のかたまりが、役目を果たして誇らしげに。
夏と秋の陽射しってそれぞれ色がちがうよね。いつか、ナマエがそう言ったことをふいに思い出す。夏の光は厳しいくらい真っ白じゃない? 秋が近づくとやわらかくなる気がするの。なんてつぶやく言葉のわりに瞳を細めるさまは、夏の終わり、秋口の窓辺ではなく、なんだかとてもまばゆい景色を見ているみたいだった。あのとき自分はなんと返したのだったか。おもしろいぐらいに憶えていない。季節の変わり目に佇んでいたナマエの横顔は、どうしたってしっかり思い出せるのに。
ぱらぱらと、適当に小説のページをめくる。微量の風圧と古めかしい紙のにおいが落ちてくる。
「うわ」
半分にも満たないところで本をめくるのをやめた。ひらり、となにかが舞い、南雲の顔の傍に落下したためだった。ひじをつき、腰をひねって気怠げに上体を起こす。
大きなベッドにぽつんとあったのは、手のひらよりも小さな紙。そっとつまみあげてみると。
「……券じゃん」
あんまりに頼りないほど小さいそれは、映画のチケットだった。焼けた、遠い記憶のような淡いベージュの半券。使用済みでとっくにちぎられたチケットには、うっすらと映画館の名前や洋画のタイトルが刻まれている。日付だけはさすがにもう、読み取れないほどかすれているけれど。
閉じた本を傍らに置き、券をじいっと見つめた。たしか、バトルシーンが目玉となるはずだったこのアクション映画はでも、公開されるなり日本じゅうで酷評された。南雲もナマエとふたりでうきうきチケットを取って、暗転する劇場でストーリーのはじまりをそわそわ待って、指先を塩やキャラメルの味にさせながら観て。そのくせ途中からはナマエと手を繋ぎ、手遊びのほうに夢中になった。要するに、終わりまで観ないまま退場してもいいくらいにはつまらない映画だった、そう記憶しているのは、ナマエも南雲と同意見だったから。
とはいえ結果的には最後の最後、監督名までしっかり観たし、映画館を出たのは辺りがライトアップされたあと。ナマエとはディナーに行きつけのイタリアンへ行き、パスタを食べ、映画の感想会という名目でとるに足らないおしゃべりをした。あの日ふたりで観た映画はたしかにものすごくつまらなかったのに、こうして思い返すとひどく楽しい一日だった。
今日はちがう。なにもないままで過ぎていく。代わり映えのしない一日が流れていく。せめて任務のひとつでも入ればいいのに、時間は容赦のないスローペースを貫き、南雲に考える暇を与え続けた。
寝転び直し、チケットを天井にかざす。それは単なる紙切れで、たとえば文庫本をやぶいた破片となんら変わりはない。コロレンスクラッチみたいに削れば指示が浮き出たり、当たって一攫千金ということもなく。なにかに使えるでもなければ書いてある単語すら読み取りにくく。無情な時の経過にくわえ、ナマエの愛した陽光が、ナマエとの思い出をかえって奪ってしまった。もはやだれが見ても決定的なほど、不要物でしかないのだった。
首をまわし、やわくひらいたカーテンの奥を見る。暦上では、夏の終わりが近づいている。でも陽射しは強く、とても強く降り注ぎ、南雲の影を浮き彫りにさせていた。ひとつだった、ベッドに垂れる影ぼうしは、あたりまえにひとつきり。
とさ、と腕を倒して大の字になる。手離して投げやった文庫本を読む気はもう失せていた。ただ、指先の、ナマエとの思い出が、ナマエがこの世に存在していたという証じみた紙切れだけが手離せない。
眠ってしまおう。南雲は上掛けをひっぱりあげ、抱き枕みたいに抱きこんだ。どうせやることもない、惰眠を貪って言いようのない今日をやり過ごそう。
目をつぶれば、口角が勝手にあがるのがわかった。まぶたの裏にはいつだって、あざやかな過去がはりついていて、そこにはナマエがいる。必ず。まるでいつもとおんなじの、愛おしい笑顔で「南雲くん」と呼んでくるのが妙にかわいくて、仕方なかった。
静寂が南雲をつつむ。
新しい本を探さなくなってどのくらいが経っただろう。毛玉がついた部屋着を気にしなくなってどのくらいが経っただろう。ナマエを亡くして、何年が経っただろう。南雲はいまも、日々をすくいあげようとする手のひらを、指の隙間を、すり抜けては流れゆく幾つもの季節のなかでひとりきり、動けないままだ。後ろにも前にも。一歩も動けない。立ち止まったままでナマエの言葉や仕草や表情や、ぬくもりばかりを辿っている。肌に彫られたタトゥーの数より、任務で負った傷よりももっとずっと多く、深く、脳裏に刻んでいる。
おもむろに目を開けた。窓からの明かりがやけにまぶしくて、眠りに邪魔でたまらない。本だって読むのをやめたのだから、やっぱり今日もカーテンを閉めきってしまおうと再び立ちあがる。
なんの気もなしに軽くふり向くと、使われなくなってずいぶん長い、ナマエの選んできたおそろいの枕が目にとまった。ヘッドボードのコンセントプラグには、南雲のではない充電器がまださしっぱなしになっている。いるべき人間のいなくなった現実を奥歯で噛み殺し、目を逸らす。
カーテンを閉めた。そのときに当たる陽射しは、ちっともあたたかくなかった。光に救いなどない。南雲は半券をつまんだままの指先に力をこめる。ゴミ箱は無視して、通り過ぎた。
もう一度物置き棚へ寄り、積まれた本のなかから今度は数独の冊子を抜き出す。そうしてナマエとの思い出をはさんでおいた。しおりの代わりに。丁寧に。大事なものを、宝箱にしまうみたいに。
太陽が少し位置を変えていた。さっきよりも低くなり、部屋がかすかに暗くなっている。信じられないほどの酷暑ももうすぐ終わって、あっというまに秋がくるのだろうと思った。
なんだか無性にナマエに触れたかった。あの声が聴きたかった。ナマエにすぐさま会いたかった。南雲はひとりだった。