20250725
ナマエちゃんをどっちの家に連れていくか少し迷った。いつも生活してるマンションの部屋か、ほとんど物置と化してるタワマンの一室か。
それで後者を選んだ。僕の家でもよかったけど、あんまりにもだらしない生活を送ってるのがこの子にバレるのはなんとなく嫌だ。
タクシーの中、隣に座るナマエちゃんを盗み見る。
彼女は緊張感を漂わせた面持ちできゅっと口をひき結んでいる。それもそうか、このあとは僕とキスの練習する、ってことになってるんだし。
キスの練習。だめだ、つい笑いそうになっちゃう。ナマエちゃん、騙されやすくて心配になるな。
そんなんだから流されてお泊まりの約束なんか取り付けちゃうんだよ。
だってさすがに早すぎるだろ。彼氏がいつできたのかを正確に知ってるわけじゃないし、いつから相手と交流を深めてったのかも不明瞭だけど。付き合いはじめてまだまもないはずなのに、それなのに、もう? ありえない。ナマエちゃんがっていうより……相手の男が。
それに彼女は言っていた。
彼はいままでにも彼女がいたことが何回もあるらしいの
そんなのますます不安を煽ってくるだけだ。相手の男、きみの身体目当てなんじゃないの。本当はそう言ってやりたかった。
だけどそれでナマエちゃんが別れを決意するとは思えない。だから別のやり方で──僕は僕のやり方で、この子をものにしようと思っている。
タクシーが港区に入る。オフィス街を超え、商業施設や住宅街を抜けていく。各国大使館だとか教育公園の緑もあって、夜とはいえ景色は目にあざやかだ。
「南雲くん」
呼ばれて横を向く。外からの光が反射して、ナマエちゃんの頬がカラフルに染まって見える。
「家、ここらへんなの?」
「そうだよ〜。家って言っても、ただ持っておいてるだけの部屋だけど」
「ふうん……」
落ち着かない様子でナマエちゃんは窓に向き直った。辺りの景色を見ているのか、ぴたりと動かなくなった後頭部が可愛い。
「着いたよ。降りよっか」
タクシーはタワーマンションのロビー横につけられた。車が乗り降りできるようになった一角で、他にもタクシーを頼んだ住人がいるのだろう、別の一台が近くに停まっている。
支払いを済ませ、行くよ〜と声をかけて彼女の荷物を持ったまま歩き出せば後ろからはたどたどしい足音がついてくる。
シャンデリアがぶら下がり、季節の花が飾られたエントランスホールを進んだ。何台かあるエレベーターのうちひとつにカードキーを当ててエレベーターを待つ間、ナマエちゃんとのことを振り返る。
僕が彼氏だったら──。
僕がこの子の彼氏だったら、あんなふうに他の男と二人っきりで食事に行くとか絶対許さないな。たとえばああやって、なにかを分け合って、食べるのも。
ふと、カフェでパンケーキを取り分けたあとナマエちゃんに「一番おいしいところもらっていいの?」と聞かれたことを思い出した。
学生時代、赤尾が食べ物の一番おいしいところはすべて姪に食べさせたくなると話した日の記憶も一緒によみがえる。
赤尾は、姪は姪で同じことをしてこようとするのだと言い、「リオンさんこれ食べて、ってちまっこい手でさしだしてくんの。カワイーんだよなァ」と笑っていた。「愛感じるだろ」と。
そのとき僕はなんて返事をしたんだっけ。もう憶えてないけど、適当に答えたような気がする。だっていまいち理解ができなかったから。
今ならちゃんと、「愛だね」と、返すことができるのに。
高層マンションの最上階。窓にカーテンは下げていない、煌びやかな夜景が広がる一室は電気をつける前からほんのり明るかった。
うわあ、とはしゃぎながら窓辺に寄るナマエちゃんを後ろから眺める。うすぼんやりと照らされる彼女の身体。暗さもあいまって、水族館にでも来てるみたいだ。
行きたいな、と思う。二人で、水族館。
「ゆっくりしてて〜」
部屋に明かりを灯し、来る途中に寄ったコンビニで買った飲み物をローテーブルに置く。傍には革張りの黒いソファ。ナマエちゃんはそこに座り込み、両手を膝の上に乗っけた。
「ね、彼氏さんってどんな人なの」
空調を整えたあと、僕もソファに腰掛ける。背凭れに片腕をひっかければナマエちゃんの肩に指先が触れた。途端、彼女は余計に身を固くしたようだった。
「教えてよ」
「……えっとね。面白くて、優しくて……」
「うん」
「背が高くて」
「何センチ?」
「181」
「ふうん。あとは?」
「ボーリングがうまいの!」
……ボーリングなら僕にもできると思うけど。とは、言わなかった。
面白くて優しくて、背が高くてボーリングが上手くて。そんな理由でこの子に好きになってもらえた相手が疎ましい。
「……あとは? 好きなとこ」
「うーんと……」
「もう頭打ち? さすがに少なすぎない?」
彼女はつんと唇を尖らせた。癖なのかもしれない、こうやって新たな一面を見つけるのは好きだ。ナマエちゃんを、もっと知れた気持ちになる。
「あとは」
ナマエちゃんが口をひらいた。
「私のこと、いつも考えててくれてるとこ」
胸が。ひやりとして、そっかと曖昧な返事をする以外なかった。胸の奥がイガイガする、なにかを吐き出してしまいたいような、不快感。
こないだもね、とナマエちゃんがデートの話をはじめる。惚気なんか聞きたくなかった。他の男の話をして笑い、頬を染めるこの子なんか見たくはなかった。
けど目が合えば微笑んでやり、相槌を打ってしまうのは惚れた弱みなのかもしれない。
「……ナマエちゃん、好みの女の子いる?」
話が一段落したところで話題を変える。自分から振っておきながら、彼氏との甘ったるい話を聞くのに嫌気がさした。
「僕、どんな子にもなってあげられるよ〜。たとえばアイドルとか、女優とかさ」
「だ……だめだよ!」
「なんで?」
「緊張しちゃってできない……」
「え〜、ありのままの僕が相手だったら平気ってこと〜?」
「違……」
ナマエちゃんに身体を向け、背凭れにかけていたほうの手で彼女の髪をといた。毛先が指にまとわりついて離れていく。
ナマエちゃんはびくり、と肩を跳ねさせてから静止した。二人の間の距離を詰める。ソファがぎしりと軋む音のぶんだけ、ナマエちゃんと近づいた。膝同士がぶつかるところでストップする。
「ほら……ナマエちゃん。言って」
「……じゃあ」
「うん」
「南雲くんが、可愛いって思ってる子がいい」
思わず動きを止めてしまった。
僕が可愛いと思ってるのなんて、そんなの、ひとりしかいないよ、ナマエちゃん。
「うーん。ならテキトーにそこらへんの子になるね」
言い置いて浴室に向かう。脱衣所で鏡と向き合い、今日街中で見かけた女の子に変装した。……これ、僕の好みって思われないかな、なんて。ちょっとした不安は否めない。
「な……南雲くん?」
「僕だよ〜」
リビングに戻ると、女の子の姿をした僕を見た途端ナマエちゃんが身構えた。なんか声も違うし本物の女の子みたい、と言われて首をかしげる。
「そ?」
「余計どきどきする……」
余計、ってことは。僕にもどきどきしてくれてたんだ、とわかって喜んでしまうくらいには、僕はこの子に惚れていた。
彼女の名前を呼ぶ。ナマエちゃん、と、大切にきみの名前を囁いた。
「電気、消す?」
ソファで二人。隣同士。照明を消したところで外から射し込む光があるからまぶしいことには変わりないけど、一応問いかける。と、ナマエちゃんがこくりとうなずいた。
部屋を暗くすれば、また、室内はライトアップされた夜景の色を拾う。ゆらゆらたゆたう夜景の灯りがナマエちゃんを包み、色とりどりに染色し、無性に綺麗だった。
「怖くなったら言ってね」
「うん……」
ナマエちゃんはすでに怯えきってるように見える。これがいつもだったら冗談を言って場を和ませてもいいところだ。でも今は、僕に集中していてほしかった。
「ナマエちゃん。こっち、見て」
まつげが震えるのすら見える距離にいた。……そのまま僕のこと見てて、ナマエちゃん。
耳たぶをなぞり、髪束をかけてあげると彼女の肩が跳ねる。僕のことをじいっと見詰めるナマエちゃんの雰囲気は熱く、今にも燃え尽きてしまいそうだった。
可愛い、もっと僕とのことで頭の中をいっぱいにすればいいのに。
ナマエちゃんの目を見る。ぴったり三秒。それから視線を鼻すじ、唇、と落としていった。今からここにさわられるんだよと、教え込むために。
首を傾ける。目はうすく伏せたまま、ナマエちゃんの後頭部を引き寄せた。鼻先同士がぶつかる。
ナマエちゃん、目、閉じて。ゆるく囁けば、彼女はまぶたをきつくつぶった。いい? ナマエちゃん。キスって、こうやってするんだよ。
「ん、」
唇を重ねた。小さな声を漏らした彼女の口は、潰れそうなほどやわらかい。だけど同時に力がこもり、固く閉じられてもいた。その矛盾がどこかおかしい。
僕はたぶん、今後一生、この感触を忘れられないんだろう。
「……怖い?」
「こ、こわく、ない……」
「じゃあ続けるよ」
「うん……」
ナマエちゃんに、もう一度キスを落とす。さっきと同じだけ軽く、同じだけの優しさでもって。
「どう? 初めては」
唇を離せば、ナマエちゃんがゆっくり目を開けた。瞳は潤んでいる、その真ん中、瞳孔に僕しか映ってないことが今はとにかく幸せだ。
「……なんか、南雲くんが女の子だから」
「うんうん」
「可愛い子とキス、してるみたいで……罪悪感」
「あはは。なにそれ」
そこに罪悪感おぼえるんだ。今、浮気中だって自覚ないわけ? だとしたら間抜けで、すごく可愛いかも。
「ね、次はナマエちゃんからしてみて」
「へ……?」
「ほら、これって練習でしょ。自分からもできるようにならないと。女の子からもすることがあったっていいんだし。僕、目つぶっててあげるから」
はい、とまぶたを下ろせば視線を感じる。今この子がどんな顔して僕を見てるのか、手に取るようにわかる気がした。
空気が動く。気配がためらいがちににじり寄ってきて、そのうち、唇の上にぬくもりが重ねられた。短くて軽いキスだった。
目を開けると、ナマエちゃんは真っ赤に染まった頬をきゅっと固くしている。
「ちゃんとできたね〜」
「で……できてた?」
「できてたできてた。よく頑張りました〜」
じゃあもう一回してみよっか。言えば、漂う気配がさらに緊張感を増した。それには気づかないふりをして、ナマエちゃんの頬をさする。
「も、もう一回……?」
「そ〜。もっと慣れないと」
「もう、慣れた……」
「ええ〜、ほんとかなあ」
「うん、」
「なら次も全然大丈夫だね」
「あっ」
腕を引いて身体を抱き寄せると、バランスを失くしたナマエちゃんが倒れ込んでくるのを受け止める形になった。
そのまま、キスをする。離れようとするナマエちゃんを許さずに、腕をまわしてきつく抱き締めた。
初めは子供の戯れみたいな触れ方をして、徐々に激しいものにしていく。何度も角度を変えて口付ければナマエちゃんは苦しそうに息を乱した。
はふはふと喘ぐこの子の、酸素を求めて薄くひらかれた唇の端を舐めればびく、と震えるさまが可愛い。もっとしてあげたくなって舌を差し込むと、ナマエちゃんが小さい声を漏らした。
「なぐも、く……、」
「ん〜……?」
「んッ」
口内を割りひらく。ぴちゃ、と濡れた音がして、舌同士が絡んだ。
ナマエちゃんのべろを舐めれば無意識なのか、彼女はゆるゆる力を抜いていった。胸もとの服をぎゅっと握られる。その手を甲側からさわると、肌はやけに熱い。
あー……。やば、興奮する。この子が僕のいいようにされてると思うと脳髄までもがびりびり痺れる。
「ナマエちゃん」
「んん、ん……」
「口、開けて。舌出して」
「できな、」
「できるよ。やってみて、……ほら」
唇のふちを舌でなぞった。ナマエちゃんが、弱々しく従う。
もう、そろそろ本当に後戻りできなそうだ。だってこの子を帰したくないし、僕以外の男の元に行かせたくない。
なにもかも初めてってなると、めんどくさいのかな、とか……
彼女の言葉がふいに記憶の片隅をよぎる。
全部が初めてだとめんどくさい? そんなわけないじゃん。むしろ自分のやり方を教え込めるなら、こんなに幸運なことはない。
「南雲くん……、」
「……」
あーあ。
僕が本気できみの恋愛を応援するためにこうしてキスしてると思ってるなら、バカみたいだ。
ね、ナマエちゃん。