学生時代に好きだった男と再会する/2024.05.09
起きた瞬間、視界ぜんぶが青かった。乾く前の絵の具みたいにあざやかな色があんまりにもまぶしくて、目をすがめると、ぼやけたピントが徐々に合っていく。青色の正体は壁一面の大きな窓が映す、空だった。やけに眼球を
灼かれるのは、昨夜とうてい正気だとは思えないほど大量のアルコールを摂取したせいかもしれない。
「うわ」
生活感のない見知らぬ部屋の、ふかふかな、大きく真っ白いベッドで目覚めたあと横を向けば、昨日わたしにありったけの酒を飲ませた男、そしてJCC時代の先輩でもある男がスヤスヤ眠っていた。いつでもさらさらと風に撫でられていた長めの黒髪が、いまはななめって垂れ落ちている。一本一本がきわだって伸びるまつげを見やり、ため息をひとつ。
「……なにこれ」
どういうこと? なんで南雲さんがいるの。服はお互い着ているものの──いや、わたしたちはふたりしてバスローブをまとっている。まさか、と頭蓋のうちに衝撃が走った。
シーツを持ち上げ、うすく開けた目で自身の身体を覗けばブラもショーツも身につけていない。ぴしりと全身が固まった。でもすぐさま自分の顔をぺたぺたさわり、メイクが落ちていることを確認すれば一縷の望みが胸をよぎる。──わたしはただ、ひとりでシャワーを浴びただけなのかも。憶えてないけど。
短く息を吐き、天井を見上げた。お酒は残っているけれど、残酷なレベルでの二日酔いにはならずにすんだことが、いまのところ唯一の救いだ。
ちらりと目線だけを隣へやる。陽射しを浴びた南雲さんのフェイスラインはなだらかで、辿って見ていけば視線は首筋のタトゥーに漂着する。昔にはなかった、黄金長方形。
昨日、南雲さんとは数年ぶりに再会した。わたしが務めるキャバクラに、彼は何人かのフローターを引き連れてやってきたのだった。まわりの人たちは次々にシャンパンをあけ、そのたび「あざす南雲さん! ゴチです! いやもうマジなんでも片付けます!!」などと両手を合わせていた。南雲さんだけはノンビリゆっくり飲み続け、「お礼なんていいよ〜。僕が来たかったのに付き合わせちゃったんだし」と終始にこにこしていた。
彼が
殺連に属しているということは、人づてに聞いたことがある。だから、飲み屋に顔を出したのは、本当は情報収集のためなんだろうと踏んでいた。実際途中からはウチのオーナーが同席したし、声をひそめて話す様子を何度も見かけたし。漏れ聞こえてくる内容はとりたてて拾うものではなかったけれど、きっとなにかの暗号を交わしてるに違いない……なんて勝手に予想してはシャンパングラスを傾けた。
わたしはそこのVIPルームで潰れた。アルコールをほとんど狂人のように浴びたおかげで今月の売上は一番に食いこんだかもしれないけど、ただのフローター上がりでたいしたやる気のないわたしにとっては、地獄の底みたいな席だった。
残っている記憶はそのあたりまで。どうしてホテルらしきところにいるのか、横に南雲さんがいるのか、いくら頑張ってもまったく思い出せない。わたしたちはセックスをしたのかどうか、も。
「ああ……」
天井に向き直れば、後悔じみた感情が体内を圧迫した。本当に最悪だ。学生時代の顔馴染みである南雲さんと、こんなふうに朝を迎えてしまうなんて。
学生のころ、といえば。わたしは、この人のことがものすごく好きだった。ていうかたぶん、当時JCCに在学していた人の大半は彼に憧れていたと思う。正しくは彼ら──坂本さんやリオンさんをふくめた三人に。そこに恋慕があろうと、なかろうと。
南雲さんとの関係は、わたしがバレンタインにチョコを渡したことではじまる。お返しは「ありがとね」という言葉のみであったものの、それで充分だった。
そしてその日をきっかけに、話しかけられることが増えていく。廊下で、南階段の傍で、学食で。わたしたちは場所を選ばずにおしゃべりした。会話といってもだいたいが、からかわれてばかりだったけれど。
そんな日々のなか、つきあおっか〜、と言われたのは全学年合同演習の最中だった。お互いに
拳銃やナイフを持ち、誰かを狙ったり、誰かに狙われたりしている合間での提案。動揺するがままにふざけないでくださいと怒れば、南雲さんはただ、悠然と微笑んでみせた。
だけどそれで終わり。彼とは結局つきあっていない。翌週養成所を賑わせた、南雲さんたちの退学処分騒動以降、彼が変わってしまったためだ。リオンさんのぶんの、笑い声が減ってから。
柔いベッドの上で身体の向きを変える。数秒息をひそめ、南雲さんが起きないのを確かめたあとそっと手を伸ばした。目もとにかぶった前髪を払いのけるようにする。少し、くまがある。昨日はトーンダウンした照明の店内にいたせいか気づかなかった。殺連に従属して動く日々は、おそらく、わたしの想像をはるかに超えて忙しいのだろう。
すう、すう、と小さな寝息がたっている。きめのこまかい肌を恨みがましく見つめつつも、視線は自然と唇へ流れた。
わたしは昨日、ここへくちづけたんだろうか。
考えたとたん、鎮火したはずの想いがぱちぱちと爆ぜた。火種はいまだに、胸のなかでくすぶっていたらしかった。
「南雲さん」
まばたきくらいのボリュームで、呼んでみる。反応はない。いまなら声にしてもいいかな──と甘い誘惑に駆られた。前日のお酒が残っている朝は、ほろほろと溶けだすブラウンシュガーみたいにやわらかい。だから思考も判断力も、どこか鈍ってしまう。
「……与市」
一度も口にしたことのない三文字。彼の、下の名を、今度ははっきりと声に出して呼んだ。呼んでからどうしようもない気持ちになり、やめておけばよかったと唇を噛む。
どうして再会してしまったんだろう。わたしにとっては南雲さんへの気持ちが初めての恋で、傷でもあったというのに。
帰ろう。この人が起きる前に。すべてを飲みこむような大きいマットレスの上、南雲さんに背を向ける。と、直後、後ろから腕が巻きついた。
「どこ行くの〜……」
耳もとで掠れた声がする。抱き寄せられればなかなかの力強さに、おもわずぐう、と唸った。一九〇センチもある男の腕のなかに閉じこめられた場合、できることは身じろぎくらいしかない。
苦しいです、とこぼすと、背中のほうでもぞもぞ巨体が動いた。後頭部のあたりにぬくもりがうずまる。たぶん、南雲さんの鼻先だとか、が。
「おはよ」
「……起きてたんですか」
「ええ? 寝てたよ〜」
事実かどうかは怪しいところだ。けど、とりあえずうなずいておく。名前を呼んだことが、どうかばれていませんように。
「あの」
「なに?」
「離してください」
「やあだ」
きみのこと、やっと見つけたんだから。南雲さんの囁きに鼓膜をくすぐられ、肩が跳ねてしまう。
「見つけた?」
「そ。ずっと探しててさ〜、昨日は念願叶って会いに行ったんだよ」
「ウチに来たのは、任務の」
ためじゃなかったんですか。だめ押しみたく聞こうとすると身体を転がされて、再び仰向けに。上へ乗っかってくる彼のバスローブがわずかにはだけると、あちこちにあるタトゥーが見え隠れする。
「……南雲さん、重たいです」
「今日ねえ、お昼過ぎまで時間あるんだ〜」
「聞いてます……?」
「うん。聞いてるよ」
軽快な応答。頭の横に両ひじをつくようにされ、顔が近づいた。ぬばたまの闇をはらむ瞳の真ん中には、自分の影が映りこんでいる。
「……ひとつ教えてもらいたいんですけど」
「僕にわかることなら」
「わたしたち、昨日……しましたか」
「憶えてないの?」
「ハイ……まったく」
「うーん。どうだと思う?」
む、と眉間にしわが寄った。腹を立てたわけではなく、記憶を掘り起こしたいがため。
「あはは。なにその顔」
ぷ、と小さく吹き出した彼は、一秒ともたずに破顔した。え〜かわい〜! と。これは完璧にからかわれている。あのころみたく。でもわたしはもう子供ではないから。アオハルど真ん中にいる学生ではないから、彼の手のひらで踊るようなことはしない。
「もういい。どいてください」
言って押しのけようとすれば、手首を掴まれた。南雲さんを見上げる。
「ゆうべはしてないよ」
「本当……?」
「ホント。僕、嘘嫌いだもん」
それに、と彼は続けた。
「きみすごい酔ってたし。しても絶対忘れちゃうだろうな〜と思って。……ていうかさすがに、ベロベロの子に手は出さないよ」
「じゃあなんで、バスローブ……」
「ああ、お風呂に入れたからね」
「えっ」
「きみが言ったんだよ、入れてくださいーって」
「ウソ……」
「でも安心していいよ〜。やましいことはなにもしてないからさ」
「……一緒には寝たのに?」
「一緒には寝たのに。まあこんなこと、ナマエちゃん以外にしないけど」
「わたし、笑える冗談が好きです」
「心外だなー。冗談じゃないってば」
「南雲さん」
次の問いかけだけはのらりくらりとかわされないよう、声音を少し落とした。ん〜? と首をかしげる彼の雰囲気はカジュアルで、血なまぐささとは程遠い。
「……どうしていまさら会いに来たの」
振り絞るようにたずねれば、わたしの上で、南雲さんがにっこり笑った。その表情を見て確信する。この人はきっと、なにも教えてはくれない。秘密事が多いのは思えば昔からで、南雲さんはつねに掴みどころがなかった。もしもこのまま距離を埋めていったって、自身が抱える傷痕のひとつさえ、つまびらかにはしてくれないのだろう。
「……手、離して」
「なんで?」
「帰ります」
「置いてかないでよ」
彼がぽつりと言った。
昔に置いていかれたのはわたしのほう。当時置いていったのは、南雲さんのほうなのに。
「ごめんね」
「なぐもさ、」
「離してあげられない」
名前を呼びかけた口先が、やわらかな唇にふさがれた。んん、とくぐもった声が漏れていく。
なんだか、心ごと掌握されているような気分に陥るキスだ。脳みそがしびれるような、わたしはこれをずっと待ち望んでいた──と信じてしまうような。
食えない言動に翻弄され、嫌気がさしていても、この人を突き返すことはとてもできそうになかった。南雲さんの前では自分のことをうまく操縦できない。いつだって。
唇が離れる。彼が頭を持ち上げれば、翳っていた視界がひらけ、またしても目がくらんだ。大きすぎる窓の奥、太陽できらきら光る空が伸びている。雲がなく、大海原と見間違うようなその景色を見るなり、ふいに気がついた。空はどうしたってきれいなエメラルドブルーで、たとえばちょうど、リオンさんの色なのだと。
「なに見てるの」
「ん、」
耳たぶを噛まれる。
「僕のこと見ててよ」
南雲さん。呼びかけるまもなくくちづけ合った。重たくて甘くて優しいキス。
もっとぐちゃぐちゃにしてくれたらいい、なんて思う。心を踏みにじり、ズタズタにしてくれたら。嫌いでしょうがないって拒絶したくなるくらい、酷くしてくれたなら。
でもそうはされないから、おとなしく目をつぶる。こうしてばかなわたしはまた、怪我を増やすのだろう。じくじくと膿んでいくばかりの恋を、リスタートさせて。