Z




 課長からのお誘いを断ったのは、初めてだった。私は彼に誘われたら、従順な犬のようにシッポを振って飛びついてしまう。暇つぶしに最適だとか、たまった欲求の解消ができるとか、そういう思いは一切なく。ただただ会いたいだけで、リヴァイ課長のつぶやく「今夜」というワードの甘さに抗えず、いつでも首輪をひかれてきたのだけど。

「ちょっと待ってて。マルロから着信」

 仕事終わりのごはん中。スマホを取ったヒッチにうなずけば、彼女は席を立った。ひとりきりになり、私もスマホを取りだして、数字の羅列を眺める。
 見慣れない数字──このあいだ、マーレ料理を食べに連れていってもらった夜に知った課長の個人携帯の番号は、まだ未登録のまま発信履歴にだけ残っていた。登録をしぶる理由はないものの、登録名はリヴァイ課長かリヴァイ・アッカーマンか、なんて些細なことを悩み、すでに数日が経った。

 私は期待してもいいんだろうか。プライベートへ一歩踏みこんだことにくわえ、その夜ホテルへと寄らないで別れた事実もあいまって、身体の関係を抜け出せたのかもしれないなどと考えてしまう。ポジティブさをはらむ私の思考は、親友と飲むお酒の味をいっそう美味しくさせた。

「じゃあまた。気をつけて帰りなさいよ」
「ヒッチも。今度は三人揃うといいね」
「そうね、アニには連絡しておくから」

 まだはやい時間に居酒屋を出て、手を振る。千鳥足になるほどではないけど、街じゅうの光の粒がきらきらして見えるくらいには酔っぱらっていて、気待ちがいい。駅までの雑踏を行けば、クラクションやコンビニのチャイム、笑い声とすれ違った。あらゆるものの比重をリヴァイ課長以外に置いている人々。頭の上では泣きだしそうな空模様が、夜を浴びて暗い。

「課長?」

 まもなく駅、というところだった。短い横断歩道の向こう、ガラス張りのカフェの店内に、覚えのある顔を見つけた。窓際に並ぶ席へ腰掛けているから、ほとんど対面しているようでもあり、見間違うはずもない。業後のリヴァイ課長はもちろんスーツ姿で、そして、隣には赤茶色の髪をした女性がいる。彼女はメガネを頭の上に乗せ、大口をあけて笑ったかと思えば課長の肩にひじをひっかけるようにし、身体を震わせてさらに一笑した。課長も課長で振り払うそぶりを見せず、ただ、なにかを話している。

「……バカみたい」

 私が断れば、リヴァイ課長は違う女性を誘うというのなら。彼に会いたいと思っているのは、やっぱり私だけだったということだ。期待なんか、ちょっともするんじゃなかった。
 落胆すると同時、前回食事だけで別れたことに漠然とした不安をおぼえる。だってどうすればいいんだろう。リヴァイ課長と、身体の関係ですらなくなってしまったら。いつの日か、なんにも求めてもらえなくなったときには。



「あ。そのバンド」

 雨が降り続いていた。外へランチに出る気にもならず、コーヒーを淹れ、デスクで休憩をとっているとフロックが私の手もとを覗きこんでいた。スマホを。

「俺も好きなんすよ」

 彼は私のデスクに片手をつく。自然と距離が縮まり、濡れた花のような香りが鼻腔を刺激した。フロックのつけた香水の、色めいた香り。彼はおしゃれだ。ヘアスタイルもきまってるし、ネクタイも遊ばせたりしていてイマドキの若者然としている。といっても、歳はそんなに離れていないけれど。

「映画の主題歌、決まりましたよね」

 フロックの声が外の雨音みたいにはずむ。返事をした私の声音も、つられてワントーン跳ねた。このバンドについて喋れる人が同じ部署にいたなんて。

「もしよければ、なんですけど。映画、一緒に観に行きません? あ、や、もっといろいろ話したくて。新曲のこととか」
「……うん、いいね」

 ほんのわずかな逡巡のあと、じゃあ、と応えれば、フロックは目を細めて笑った。
 ふいに視線を感じる。顔を向ければ、リヴァイ課長がこちらを見ていた。目が合っても、彼に慌てる様子はなく、凪いだ瞳はゆるやかに逸らされていく。
 いまの会話を聞かれていただろうか、課長の前でほかの男と約束したことを悔いる。そして、なんてばかばかしい後悔だろうと胸のうちで人知れず自嘲した。私がだれと会おうが、どこに行こうが、リヴァイ課長は気にするはずがないのに。



 ひさしぶりの連絡を受け、ホテルに向かう。部屋へ入るなり私の上着を脱がせたのは課長だった。性急ともいえる仕草で、服はすべてはぎ取られていく。ベッドに倒れこみ、身体を割りひらかれ、舌先があちこちを這う。湿度の高い音が鼓膜を撫でた。リヴァイ課長の指がばらばらに動くのを感じながら口に手の甲を当てたのは、鼻にかかる声が抜けていくのが恥ずかしかったからだ。でもすぐに手首を掴まれて、身じろぐ。

「聞かせろ……ナマエ」

 鎖骨の下に噛みつかれると、歓喜するような鳥肌が広がっていった。濃い噛み跡になればいいのにと思い、それからひどく泣きたくなる。名前を囁かれれば締めつけてしまうような自分が、ホテルへ誘われて安堵したちんけな自分が、なんだかとても惨めだった。
 小さく呼びかけられる。うつむくみたいにして課長を見ると、目が合って、それだけで、私は頂点に押し上げられた。ぞっとするほど簡単に。

 終わったあと、ふたりでバスルームへとこもる。夜景が売りのこのホテルは、どこの窓も大きい。ただし今夜もあいにくの悪天候で、地上のネオンや、ビル群のてっぺんで光る航空障害灯はガラスの奥に滲んでいた。

「あの……しないんですか?」

 声を発せば、なみなみとはったお湯が揺れる。さざ波が起こり、水面下ではふたつの身体の線が所在無さげに曲がっていた。

「あ?」
「ここで」
「お前……そういうのがシュミなら早く言え。俺はそんな若くねえんだ、もう出ねえよ」

 課長は呆れたふうに息を吐く。そのまま濡れた手で、髪をかきあげて目を伏せる。行為後、シャワーから戻ってくる課長の髪の毛はいつも乾いているけれど、湿ることはかまわないんだろうか。

「そうじゃなくて。しないなら、なにをしにお風呂場に来たのかなって」

 瞳をふち取るまつげをもち上げ、彼は眉をひそめた。

「んなもん、身体流しにくる以外あるか」
「私も、いっしょに?」
「そうだ」

 返答に目を丸くしてしまう。ふたりでお風呂に入るのは、だって初めてだ。[[rb:浴室>ここ]]へはてっきり、セックスのために連れてこられたのだと。

「そう、ですか……」

 私の、困惑気味の声が反響した。会話が途切れ、やがてガラス越しの景色を眺めはじめた課長の横顔は、色とりどりのネオンを少し、浴びていた。
 ああ──わかった。リヴァイ課長の目つきはなにかに似ている、と前から思っていた。彼のそれはだれにでもなく、雨に似ているのだ。しとしとと降りしきる、透明でつめたい雨に似ているのだった。

 お風呂場から遅れて戻ると、課長は帰り支度を進めていた。仕事着を身につけた背中は一見オフィスにでもいるふうで、昼間と違うものはなにひとつないように感じられる。
 私も支度をしていく。帰りたくなくて、のろのろと。

「……濡れてんじゃねえか」

 真後ろに気配が立った。髪をひとふさ掴まれ、耳たぶの近くで囁かれれば、手が止まる。

「しっかり拭いてこい」

 バスルームではヘアクリップではさんでおいたのに。毛先が、落っこちたのかも。

「もう帰るだけですから」
「だめだ。夏だってんならまだしもな」

 髪を梳くようにしてのぼってきた指が、私のうなじをさわった。低くて、でも人肌のぬくもりをもつ温度。課長の体温だ。

「本当に、」

 大丈夫なので。そう言おうとしたものの、リヴァイ課長は踵を返してバスルームのほうへ行ってしまった。私は頭だけで振り向いて、数秒間、だだっ広いホテルの室内を見ていた。ひとりではけっして取らない、大きなベッドのある部屋を。

「コイツで拭いておけ」

 戻ってきた彼に、タオルをふわりとかぶせられる。

「課長」
「ん?」

 目の前が真っ白に埋まり、なにも見えないのをいいことに呼びかけた。彼女は作らないんですか、心に決めた人がいるんですか、メガネをかけた女性とはどんな関係なんですか、明日の夜も会えますか、好きです。全部、全部、言葉にはできない。

「……課長が、拭いてください」
「ガキか、お前は」

 誤魔化すように言えば、そっけない口調が返ってくる。リヴァイ課長はでも、は、と笑ってタオルへおざなりに手をかけた。そのくせ優しく、ドレッサーに座るよう促される。まさか本当に拭いてくれるなんて。甘やかされるみたいで、どこか落ち着かない。
 結局私は、この人でばかり幸福になっている。そしてリヴァイ課長以外では、私は、不幸にもなれないままだ。彼を好きになってから、ずっと。






ALICE+