01

『春、俺はずっと、』

その続きを口にすることなく、一番の友人は私の前から姿を消した。続きの言葉に期待を膨らませて何度朝を迎えても、とうとう彼から連絡が来ることはなかったのである。一度こちらから連絡をとろうとした頃には、全ての連絡手段が途絶えたあとであった。自分の信念をしっかり持っていた友人が中途半端に言葉を飲み込んだのは私の知る限りその一回だったので、今思えばその時すでに姿を消すつもりでいたのだろう。
最後の光景を何度夢にみたって本人が再び姿を見せることはなく、やっと友人はいなくなったのだ、と頭が理解したその後。思い出すたびに胸を締め付けられることのないよう全部の思い出を頭の隅っこにしまい込んで、早数年。





「いらっしゃいませ」

なんてことないような、言葉の通りにただただ客を迎える以外になんの感情も乗らない声が、記憶の中の言い淀んでいた友人の声をあっさりと上書きした。

「……え?」

仕事帰りに初めて寄った喫茶店で、なんの前触れもなく、まるで数年の空白など私の見る悪い夢だったかのように、友人はそこに当たり前の光景として存在していた。

「ふる、や…」

勝手に口から溢れ出た名前は、音になっていただろうか。ぽかんと口を開けたままの私と、その人の目が合う。その姿は、数年前とさして変わりないままの、どこからどうみたって降谷零である。…でも確か彼は警察官になったはずだったのだけれど、どうしてこんなところに?
降谷は表情を変えることなく、「お一人ですか?」とやたらに丁寧な声を作って私の側までやってきた。何か様子がおかしい、とは思うけれど、私にしてみればある日突然姿を消した友人がいきなり目の前に現れたことがいちばんおかしな事なのだ。それ以外の事を気にかける余裕が正直ない。

「え、あ、ひとりです、」
「…悪いけど、名前呼ぶのは禁止」
「っ…!」

目の前に影が差したかと思うと、覚えのある声が耳元で囁かれる。ばっと耳を抑えてはくはくと無意味に口を動かす私を置き去りに、「ご案内しますね」と降谷はすたすた歩いて一番奥の席へと向かった。慌てて我に返って急ぎ足で席につく。途中、カウンターに座る老夫婦の相手をしている、降谷と同じエプロンを付けた可愛らしい女の子と目が合った。会釈をして通りすぎる。
席に着き、ようやく少し思考回路が回り始めたところで、先程の降谷の言葉を思い出した。
…名前を呼ぶな、とは一体どういう事なのだろうか。警察官になった筈の降谷がここで働いている事と何か関係があるのか。なんにも分からないけれど、ひとつだけ確かな事は、あたたかい風が肌を撫ぜる今日、私は降谷零と再会したという事である。

「会えた…」

どうやら今日は自分の意思とは関係なしに言葉が溢れてしまう日のようだ。

「…久しぶりって、言ってもいいの?」
「……、もちろん。久しぶりだね、春」
「元気だった?」
「見ての通り、元気だよ」

やっぱりなんだかわざと雰囲気を変えているらしい降谷。どんな顔で向き合ったらいいのか分からず、差し出された水の入ったグラスをじっと見つめたまま、息を潜めるように会話をした。先ほどよりも砕けた話し方に、少しの安堵を覚える。
名前を呼ぶな、と私には言う癖に自分は簡単に私の名前を呼んでみせるのだからたちが悪い。久しぶりにその声で呼ばれる名前はなんだか特別な名前のように聞こえて、思い出と一緒に閉じ込めていた何かが溢れそうになる。それを押し込めるように奥歯を噛み締めて堪えていると、グラスの水面がゆらゆらと揺れて見えた。

「ご注文は?」
「あ、アイスコーヒー、で」
「了解」

注文を促す声にようやく顔をあげたけれど、やっぱり降谷の顔をみることは出来なくてぼんやりとエプロンの結び目を見るに留まった。腹が立つくらいに綺麗な蝶々結びである。

降谷がカウンターの奥に消えていってから戻ってくるまではすぐだった。お待たせ。ありがとう。たったそれだけの会話だ。グラスを目の前に差し出す降谷の腕を眺める。ぼんやりした思考の中、流し込んだアイスコーヒーが喉を通るたび、少しずつ蓋をしていた思い出が蘇っていく。私は一度だけ、これよりもう少し細かった頃の、それでも同じ腕に抱きしめられたことがある。
記憶の中よりも幾分か逞しくなったその腕は、もう私を抱き寄せたことも忘れているのだろうか。私も抱き寄せられた事は忘れた事にしていたのだから、降谷だって同じだって不思議じゃない。本当に忘れていたって恨みごとのひとつも出てこないほどに、私達には空白の期間がある。そうでもなければ私達は、とっくに再会していたはずだ。

でも、今日再会した。


「聞きたいことがあるの」

カラカラのアイスコーヒーの氷を鳴らせながら、今度は真っ直ぐに降谷を見上げて伝えた。一瞬だけ降谷の目が見開かれる。きっと今の私の言葉は降谷を困らせた。
友人としての困らせていいギリギリのラインだったであろう。もしかしたら少しだけ気持ちが声に乗ってしまったかもしれないけれど、いまなら再会の嬉しさの中に溶かしてしまえるような気がした。このまま声を掛けないで、またこの男の事を忘れたふりをして生きていくなんて、とてもじゃないけどできそうにない。
私はただずっと、ずっと降谷に会いたかったのだ。

「…今日、時間はあるかい?」
「今日はこのまま直帰だけど…」
「三十分待っていてくれ、送るよ」

どこか諦めたような、仕方ないとでも言うような笑みで降谷が言う。降谷側の事情が分からない以上は彼に判断を委ねるしかなかったけれど、どうやら話はしてくれるようだ。

「ありがとう、待ってるね」

再会してから今までで一番、自然に言葉が紡げたように思う。


三十分後、やたらににこやかな店員の女の子に「ありがとうございました、また是非来てくださいね。」と言われたけれど、あなたと一緒に働く男とのいまからの会話次第なんですよ、と心の内だけで返して、私は初めて来た喫茶店の裏口を探した。