20

じわじわと身体に染み渡る言葉を、まだ受け止めきれずにいる。ただでさえ近い距離に心臓は早鐘を打っていたというのに、耳元に低く響いたたったひとことに鼓動はさらに乱されて、指先ひとつだって自分の意思では動かないような気がした。
返事ができないまま、ひゅう、と小さく息を吸ったのも、真後ろにいるこの男には聞こえただろう。くつくつ笑ったかと思えば、再び耳元に息がかかる。

「春が言わせたくせに、黙るなよ」
「ちょ……っと待って、とりあえず離れて…!」

低い声に鼓膜が震えるのがたまらなくくすぐったい。それを振り払うかのように出した声は思ったより大きくて、マンションの廊下に私の焦った声が響いたのでとっさに声を抑えた。
ともかく距離をとってもらわなければ、降谷の言葉に応えることすら満足にできそうにない。必死でそれだけ伝えると、またひとつ喉の奥で笑った降谷の体温が離れていくのを感じる。そうしてやっと、息ができた。

降谷が私の頬に触れた時の体温や涙を拭ったその眼差しの中に、私が降谷に持つのと似た温度の熱を感じていなかったといえば嘘になる。学生のとき感じていたのと似た温度のそれは、大人の触れ合いというにはあまりにささやかで、けれど子供の触れ合いにしては熱を孕みすぎていた。私は決して人の気持ちに鈍感な方ではないし、降谷もそうだろう。そんなやりとりをいくつか交わしていく中で、お互いにお互いの気持ちを確認していたのだろうと思う。
思い出すたびに襲われる羞恥に耐えられず思考を放棄してしまったけれど、あの日のキスもそれを忘れるなと言ったのも、私にとって前向きに捉えていたのは確かである。

しかし私が言わせたとはいえ、それまで私は降谷が明確にその感情を口にすることはないだろうとほとんど確信していた。降谷の仕事はとても大掛かりで繊細なものだと、なんとなく感じていたからだ。私が普段出会うのは九割方安室くんだし、降谷の名前を知っているのも私の知る限りではコナンくんだけである。安室くんとして為すべきなにかがあって慎重になっている中で、恋人というリスクのある関係を築いたりはしないのだろうなと漠然と感じていた。
一方私も、思い合っているだけでいいかと改めて考えると寂しい気がするけど、恋人同士として手を繋いでデートする姿より、好きだと告げないままに微妙な感情の擦り合わせを重ねて、時々指先に触れるだけの関係が想像に易かった。
それだから、改めて気持ちを伝えあったりする日などこないのだろうとさえ思っていたのだ。今の今までは。 

ドアと向かい合った体勢から、恐る恐る降谷の方へと向き直る。一体どんな表情をしているか想像もつかなかったけれど、私が顔を上げたとき降谷はやっとこっち向いたな、と笑っていた。あまりにいつも通りの表情に、さっき私に言った言葉はやはり幻聴か何かだったのではと疑いたくなる。
目線を逸らしてしまいたくなるのをぎりぎりで耐えて、けれどやはり灰がかった青色だけを見つめることもできず、男性にしては長めの前髪に視線をやりながら口を開いた。

「本当に言った?」
「ん?」
「本当に、私の事を好きって言った?」
「はあ?」

降谷の、髪と同じ色の眉がきりっと吊り上がる。そんな風に表情に出さなくったって声色だけで充分に静かな怒りが伝わる。なんだか私、降谷のことを怒らせてばっかりかもしれない。

「聞こえなかったならもう一回言おうか?」
「それはいい!」

もう一度言われなんてしたら、今度こそ心臓が止まってしまうかもしれない。それほどの衝撃だったのだ。疑いたくなるのも仕方がないと思う。
私の事を好きだと降谷が口にすることは、きっと降谷が思うよりもずっと、私にとって大きな意味があった。だからこそ、降谷の言葉はいまだに現実味を帯びない。

だって、と情けない声をあげたのと、それは同時だった。

「っ」

チン、と無機質な機械音がマンションの廊下に響いて、思わず息を止める。降谷もそうしたみたいで、一瞬ここには誰もいないかのような沈黙が生まれた。
機械音の正体は、誰かがこの階でエレベーターを止めた音に違いない。それまでなんの人気もなかったから、いまから人が降りてくるのだろう。こちら側に来ようが来まいが、エレベーターから出た時点で私たちが居たら気付かれてしまう程度の距離である。
知らない男女の話し声と共に、足音が不規則に鳴り出す。



一瞬で私たちの姿が見られる未来が頭の中に浮かんで、身体が咄嗟に動いた。

「うわ」

珍しく狼狽る降谷の声は乱暴に扉を閉めた音にかき消される。もう見知らぬ男女の声は少しも聞こえなかった。私の部屋とは反対の方へと歩いていったのだろう。
嗅ぎ慣れたグリーンティーの香りがふわりと鼻をくすぐる。家の玄関に置いてあるディフューザーの香りだ。

「……ごめん降谷」

人に見られてはいけないという意識が先行しすぎた私は、あれだけ私の部屋に入るのを躊躇していた降谷の腕を掴んで、ほとんど引っ張るように扉の内側へと招き入れていた。

急に引っ張られたというのに、降谷はよろける素振りのひとつも見せないまま玄関に入ったところで足を止める。それでもさすがに驚いたらしく少しの間呆け顔でいたけれど、何かを感じ取ったようにはっとしたかと思えば、次の瞬間には眉を潜めていた。
鋭くなった視線視線がこちらを捉えるのが分かったので、そろりそろりと目線を落とす。

「春、さっきも言ったけど」
「はい」
「簡単に男を部屋に入れない」
「すみません…」

不可抗力では、と言い出せる雰囲気ではなくて玄関のコンクリートを眺めたまま頷いた。はあ、と頭上からため息が降ってくる。

「キスもしたし、ついさっき告白だってした男だよ。俺は」
「こっ」
「やっぱり聞こえてなかったなら」
「聞こえてた!聞こえてたけど…」

先ほどと似たようなやりとりに上乗せして、わざと私が困るような言い回しをする。きっと無理矢理部屋に入れてしまった仕返しなのだろう。私がまんまと困り果てたのに満足したのか、もうその声から怒りは感じなかった。

「…まだ信じられない」
「どうして」
「降谷はそういうの、言わないと思ってたし…」

色々あるけれど、一言で言うならそういうことなのだろう。言わないと思っていたし、言われないと思っていた。信じられないから嬉しいという感情にだってまだ至らない。ずっと私に都合の良い夢を見ているんじゃないかと本気で思うのだ。

「分かった」
「ん?」
「返事を聞かせて」
「…え?」
「告白の」
「今?」
「今」

突拍子もない発言に思わず顔を上げた。冗談かなにかかとも思ったが、目の前の降谷の表情は至って真剣で、本気なのだと悟る。
問答しているうちに降谷はじりじりとこちらに寄ってきた。後ずさることでどうにか距離を保っていたけれど、いよいよ腰の辺りが備え付けの棚にひたりとくっついてしまう。それでも詰り寄ってくる降谷は、私の逃げ場を塞ぐようにその棚に手を掛けた。
昼間とはいえ、電気ひとつつけていない部屋の中は薄暗い。その中でも一際目立つ明るい茶髪がさらりと流れて、降谷が身を屈めたのが分かった。ほとんど同じ目線になった目の前の顔を正面に捉える。こんな状況でなければため息をつきたくなるくらいに整った顔である。今の私は、それに臆することしかできないけれど。

「待って降谷、近い…っ」
「待たない。春が部屋に入れたんだろ」
「それとこれとは話が別…」
「一緒だよ。言っただろう?俺はとっくにその気だよ」

明け透けな物言いに顔に熱が集まる。きっと私の顔は赤くなっているけれど、もう降谷はそれをからかうことすらしない。それは戯れで言っているんじゃないと言われているようで、泣き出してしまいたかった。さっきみたいに顔真っ赤だよ、という一言を心の中で望んではみるけれど、望むだけに終わるのは目に見えていた。

「でも春が返事してくれないと、何もできない」
「何もって何…!」

すり、と降谷の着ているシャツが擦れる音がして、一層距離を詰められる。さっきは言えば離れてくれたけれど、その気であるらしい降谷を目の前にしてそれももう叶わないだろう。逃げたいわけではなかったけれど、降谷の瞳に宿る熱が、じわじわと私を焦がしていく気がしてなんだか怖かった。

「…こたえ、分かってるでしょ」
「うん。でも教えて」
「……」

頑なに私の口から返事を聞く姿勢だ。もういよいよ鼻先同士が触れようかという距離まで近づいて、ようやく降谷の動きは止まった。もうこれ以上ないくらい近い距離に、緊張と恐怖で足が竦む。
震える唇を一度噛み締めて、それからなんとか開いた。返事なんてはじめから決まっているのに、ただ口にすることがこんなに怖いとは。

「…私、これ言ってからまた何年も居なくなられたら、嫌だよ」
「努力はするけど、約束は出来ない」
「…ひどい男だね」

素直に嫌だ、と言ってみせたこんな時くらい甘い嘘で騙してくれたらいいのに、降谷は自分にも私にもそれを許さない。それでもするりと頬にまわった指先だけがいやに優しい。
信じられないと言った私に信じろとも言わない。私が安心する言葉のひとつも掛けない降谷は存外頑固な男である。




「でも私、降谷だけが好きだよ」




一度は灰へと還したはずの恋だ。本人へ想いを伝えるだなんてまさに夢物語だと思っていた。
目の前の目蓋がそうっと伏せられて、長い睫毛が陰を作っていくの以外何も見えない今になっても、現実じゃないのではないかとちょっとだけ思う。
それでも、

「信じさせて」

もう一度出会えた、私たちのこと。
重なった唇の熱さに涙が滲んだ。